父は通算474本塁打 フジ田淵裕章アナが野球を諦めた森本稀哲の衝撃

フジテレビの田淵裕章アナウンサー【写真提供:フジテレビ】

家にあるバット、ヘルメット、グローブ…自然と野球に没頭するようになった田淵アナ

【私が野球を好きになった日24】
新型コロナウイルスの感染拡大による開幕延期を乗り越え、6月19日のプロ野球開幕が迫ってきた。野球を見られない自主期間中からFull-Countでは、野球を愛する選手や文化人、タレントらの野球愛や思いの原点をファンの皆さんと共感してもらう企画を連載してきた。「私が野球を好きになった日」の第24回はフジテレビでプロ野球の実況を担当する田淵裕章アナウンサー。

田淵アナにとって野球は生まれた時から、いや生まれる前から身近な存在だった。父は阪神、西武で通算474本塁打を放った強打者・田淵幸一氏。家にはバット、グローブ、ヘルメットと言った野球道具が数多くあった。「それが当たり前にあったので遊び道具として使っていました」。自然と野球に触れる環境にあった。

父の幸一氏は田淵アナに対し、野球を勧めるようなことも強要するようなことも一切なかった。それでも、当たり前のように田淵アナは野球をするようになった。「友達と公園に行ってやるのはカラーバットとボールを持って行って野球でした。自ずとスッと入っていったような感じですね。身近にあった野球をやりたいと思ったんでしょうね」。本格的に野球を始めた小学校時代は強打者でならしたという。

ただ、中学校では世の中で大人気となっていた人気漫画「スラムダンク」のブームもあってバスケ部へ。高校入学を機に再び野球部に戻った。「中学の3年間でやっぱり野球をやりたいと思ったんですね。野球が楽しかったし、未練があったんだと思います。高校でやればもっと上手くなって、もしかしたらプロに行けるんじゃないか、と淡い期待を抱いたこともありました」。再び始めた野球。その高校野球で今後の人生を左右する“出会い”を果たす。

1998年、高校2年の夏の東東京大会だった。田淵アナの青山学院は東東京で16強に進出。ベスト8進出をかけて、名門・帝京と対戦した。1998年と言えば、当時、横浜高のエースだった松坂大輔投手(現西武)に代表される“松坂世代”の年。相手の帝京にはのちに日本ハム、横浜、西武でプレーする森本稀哲氏がいた。

帝京時代の森本稀哲氏から受けた衝撃「全てが全くの別物でした」

この試合で田淵アナは、これまでに味わったことのない衝撃を受けたという。「森本さんを見て野球って奥深いな、と思いました。レベルが違いましたね。やっている競技が違うというか、スピード、強さ、全てが全くの別物でした」。

田淵アナは中前へ抜けようかという痛烈な打球を放った。「センターに確実に抜けたと思ったんです」。だが、当時、遊撃手だった森本氏がこの打球に平然と追いつき、一塁へと送球してきた。結果的には内野安打となったものの、自身のイメージを遥かに上回る森本氏のプレーを目の当たりにして決断した。「大学に行って野球をするのをやめよう、選手としては無理だ、と」。

高校3年間を区切りに選手としての道を諦めた田淵アナ。それでも“野球愛”は身体の中から消えなかった。「将来、野球に携わりたいという思いはありました。アナウンサーとは思っていなかったのですが、野球に携われる仕事をしたいな、と思っていましたね」。幸運にもフジテレビのアナウンサーとして、その思いを叶えることができた。

野球の世界も奥深いが、それを伝える実況の世界も奥深い。田淵アナは実況の難しさとして「まず台本がありません。シナリオは一切なく、3時間、3時間半、フリートークです。10人の実況がいたら10通りの実況があるんです」。野球は筋書きのないドラマだ。同じ試合は1試合もなく、その試合、状況に応じて解説者と話をしなければならない。

「解説者をナビゲートして、より面白く、分かりやすく伝えるのが私たちの仕事です。いかに『今が肝ですよ』と視聴者に気づかせることができるか」と田淵アナは実況としての役割を語る。そして「投げました、打ちました、抑えましただけを伝えるのが実況ではありません。大切なことは、どこに目を付け、話題を作り、いかに視聴者が試合をより楽しめるかをシーンごとに考えることです」と、実況のポイントを語る。

プロ野球実況の舞台裏「緊迫した試合は誰が話しても、いい中継になる」

実況者のやるべきことは数多い。試合中に話題になるデータやパーソナル情報は、ほとんどが手作りの資料や取材によるものだ。「『実況中はディレクターがカンペを出しているんですか』とよく聞かれるのですが、それは違って、多くは自分で考えています。結構驚かれるのですが……。データ、資料も全部自分で作ります」。同局の大先輩である三宅正治アナウンサーからは「資料を作り終えたら90%の仕事は終わっている。残り10%は目の前の試合を実況で伝えること」と教えられた。それくらい、試合に臨むにあたっての資料が実況アナウンサーには大事なのだという。

時間をかけて作る資料だが、これを使えば使うほど、実況としては良くないものだという。「資料はあくまでも過去のデータ。実際には新しい出来事がスタートしているので、資料は用意しますが、ほとんど使いません。先輩には『作った資料を3割、4割使ったら、その中継はダメ。生中継の意味がない』と厳しく言われました」。緊迫したゲーム展開であれば、リアルタイムの状況だけで実況は成り立つ。難しいのは大味な試合展開。そこでいかに資料だけに頼らない実況ができるか。実況アナウンサーの腕の見せ所でもある。

実況アナウンサーは、他のアナウンサーが実況する試合をチェックして勉強する。田淵アナ曰く、この時も緊迫した好ゲームを見ることは少ないという。「緊迫した試合は誰が話しても、いい中継になるんです。見るのは、序盤で大差がついたような壊れた試合。こういう試合で、実況者がどう組み立て、目を付けて、解説者に話を聞くか。そこに注目して勉強します」。大味な試合こそ、実況者の力、特徴に差が見える。

新型コロナウイルスの感染拡大により、開幕が延期となっていたプロ野球。当然、実況アナウンサーである田淵アナも取材に出かけることはできなかった。そのため、この期間中は実況の質を上げるために時間を費やした。「今は準備するしかない。アウトプットができないのでインプットすることを重点的に行っています」と、各球団、選手たちの資料を徹底的に分厚くした。過去の実況を振り返り、改めて反省、検証も行った。

プロ野球は6月19日に開幕を迎えることになった。田淵アナにとっても、ようやくプロ野球を実況できる日々が戻ってくる。6月12日のヤクルト対楽天の練習試合では久々に実況を務める予定となっている。「アナウンサー個人として、いつ始まってもいいように準備しています。プロ野球が開幕した時に、実況の技術など、改善しようとしたことをまとめて発揮し、いい中継に繋げたいというのが実況アナウンサーとしての思いです」。苦しい日々を送ってきたのは実況アナウンサーも同じ。新たな実況アナウンサーとしての姿を見せたいと願っている。

田淵裕章(たぶち・ゆうしょう)
1981年11月9日、埼玉県所沢市生まれ。38歳。青山学院大学から2005年にフジテレビに入社。「笑っていいとも!」や「バイキング」などに出演し、現在はプロ野球以外にも様々なスポーツ実況を務めている。

【写真集】若かりし父・田淵幸一氏との2ショットも… フジ田淵裕章アナの秘蔵写真の数々

若かりし父・田淵幸一氏との2ショットも… フジ田淵裕章アナの秘蔵写真の数々【写真:本人提供】 signature

(福谷佑介 / Yusuke Fukutani)

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