なぜ「憧れの吉祥寺」はトップから陥落したのか? 地元出身の編集者に聞いてみると…

なぜ吉祥寺は「住みたい街」トップじゃなくなったのか

この数年、異変が起きているSUUMOの「住みたい街ランキング」。2018年以降、それまで不動の3位だった「横浜」がトップに浮上し、1位がほぼ指定席だった「吉祥寺」が3位に滑り落ちました。なぜ不動の1位がいきなり3位に……。その理由はどこにあるのでしょうか。東京の街事情に詳しく、しかも吉祥寺で生まれ育ったという編集者・ライターの松浦達也さんに聞きました。

「僕は、数年前まで吉祥寺公園口のマルイの裏にあった水口病院という産院で50年前に生まれました。当時はまだ東急百貨店もマルイもなく、後に現在のヨドバシカメラとなる近鉄百貨店もありませんでした」

1970年代までの吉祥寺は「生活の街」だった

コロナ禍の「自粛」報道で頻繁に取り上げられた“活気あふれる”サンロード。1970年代から賑わっていた

「一方、物心ついた1970年代頃でも北口のアーケード商店街、サンロードやダイヤ街などはにぎわっていました。コロッケの行列で知られる精肉店の『肉のサトウ』、羊羹や最中が人気の和菓子店『小ざさ』、おでん用の練り物店『塚田水産』などは当時から人気店でしたし、サトウのはす向かいにある乾物店、『土屋商店』の佇まいは昔もいまも変わりません。

もっともまだ、ハモニカ横丁には飲み屋はほとんどなく、個人経営の玩具店や模型店、洋品店に惣菜店が軒を連ねていたほか、2軒の大きな鮮魚店があって、軒にはプラスチックの釣り銭かごが下がっていました」

吉祥寺の街は近年も大きく変貌しています。JR側の低層の駅ビルは2010年に「吉祥寺ロンロン」から「アトレ吉祥寺」へとリニューアルされました。いま「ユザワヤ」が入っているキラリナ京王吉祥寺(京王吉祥寺駅ビル)は、長らく「ターミナルエコー」というほとんどテナントの入っていない8階建ての駅ビルだったと言います。

「いまも駅からユザワヤへの動線がいまひとつなのは、JRと京王井の頭線の位置関係によるもので、ユザワヤのせいではありません。当時は、駅の地下に『シヅオカヤ』というスーパーもありました。

僕が小学生だった頃の吉祥寺は『昔ながらの商店』と『商業施設』が適度に混じり合ったのどかな町でした」

"ハレ"の街になることによって、失われた"ケ"の魅力

「小学校の同級生にも町場の小さな魚屋の跡継ぎがいたし、行き交う人々も住居、学校、勤め先のいずれかが吉祥寺にある人たちが中心。少年野球の練習をサボってロンロン地下のゲームセンターにいたのをご近所さんに目撃され、連絡が行った父親に首根っこをひっつかまれたこともありました。にぎやかだけど、あくまでも『生活の町』。それが40年前の吉祥寺でした」

そんな吉祥寺の街が変貌を遂げ始めたのが、1970代中盤から1980年代にかけてのこと。東急百貨店(1974年)、近鉄百貨店(1974年)、マルイ(1978年)、PARCO(1980年)など大型の商業施設が次々に建設され、「ハレとケの入り交じる絶妙のバランスを土台とした住宅街が繁華街へと変貌していった」と言います。

「20歳の頃に付き合っていた下町育ちの彼女とも、1980年代後半から1990年代初頭にかけてよく吉祥寺に遊びに行きました。いまもある店だと、東急百貨店裏の『まめ蔵』や『武蔵野文庫』でカレーをさらい、老舗ラーメン店の『ホープ軒本舗』や『一圓』などで麺をすすり、『多奈加亭』や『レモンドロップ』の甘いケーキに舌鼓を打ったりもしていました。井の頭公園を散歩して、『いせや』でビールをグイグイ、焼鳥やシューマイをもぐもぐ。いまではPARCOの地下2Fと言えば映画館のUPLINK(アップリンク)吉祥寺が入っていますが、PARCOの地下と言えば、もちろんPARCOブックセンターでした。吉祥寺は2~3駅離れた人にとってのちょうどいい『繁華街』だったんです。ただ、その頃から街の雰囲気が大きく変わっていった気がします」

乗降客数が大幅に増えた1990年頃

調べてみるとこの頃、吉祥寺駅の乗降客数に変化が起きています。1970年代から1980年代にかけて、JRと京王井の頭線の合計乗降人員数は1日17~18万人でした。それが、1987(昭和62)年から1991(平成4)年の5年間で急激に22万人にまで伸びたのです。

吉祥寺駅乗降客数JR京王合計1987年(昭和62年)106,39675,967182,3631988年(昭和63年)126,79277,000203,7921989年(平成元年)130,73176,693207,4241990年(平成2年)135,80877,786213,5941991年(平成3年)139,91780,473220,390

昭和から平成にかけての数年間で、乗降客数が20%以上増え、吉祥寺は「繁華街」というステージを走り抜け、「観光地」化が急速に進みます。週末に人が押し寄せるようになり、駅から井の頭公園へと下りる階段はいせや公園口店前に加えて、東側にもうひとつ増設されました。

「この頃から僕は、吉祥寺から足が遠のきました。目当ての店のためなど明確な目的が必要になり、ぶらりと散歩をする街ではなくなってしまったのです。街歩きの醍醐味は、ふとした瞬間に見過ごしていた何かを発見できることです。しかし、人が多すぎるとその発見をするのどかさがなくなってしまう。街が発展するのはいいことかもしれませんが、人の営みに寄り添うようなひなびた魅力が失われてしまうのは寂しいですね」

急速に進んだ観光化と商業化は、さしづめ吉祥寺の新宿・渋谷化であり、原宿化とも言えるのかもしれません。皮肉なことに、この頃から吉祥寺は全国区となり、「魅力的な街」だという認知は広まっていきます。1990年代後半2000年代にかけて、「住みたい町」の調査で吉祥寺が上位にランキングされるようになっていきます。

「観光地」になって「住みたい街」ではなくなった

いまや一大飲み屋街の様相を呈するハモニカ横丁。かつては個人経営の玩具店、鮮魚店などの商店が軒を連ねていた

「『複数の路線が乗り入れていて』『大型商業施設と閑静な住宅街があり』『都内有数の公園も近い』というスペックだけ見れば、たしかに魅力的に映ったことでしょうが、ハモニカ横丁にあった、鮮魚店や町の玩具店、模型店は姿を消し、代わりに飲み屋が幅を効かせるようになりました」

どんなに「至便な住宅街」であっても、「繁華街化」や「観光地化」は住む人にとって、手放しで歓迎できる事象とは限りません。東急リバブルの調査によれば、吉祥寺の路線価は2012年から2019年までの7年間でおよそ3割も高騰していて、今後も高騰傾向は進むと言われています。

30年以上吉祥寺に住んでいる友人に聞くと「飲むのにはいいけど、住むには落ち着かない街になった」(40代・女性)、「地元民の生活のための店はもう数えるほどしかないね。パン屋だってフランスパンとかドイツパンの店ばかりで、食パンとショートケーキを売るようなパン屋はなくなっちゃった」(50代・男性)という声が上がるのも無理もありません。いまや吉祥寺は「住む街」から「遊びに来る街」へ、住宅街から観光地へと変貌したと言っても過言ではないと思います。

もっとも裏を返せば、街が観光地化して家賃が上がろうとも「住みたい街」のベスト3に入るということですから、吉祥寺という街にはそれほどの魅力があるということなのかもしれません。

松浦達也(まつうら・たつや)

東京都武蔵野市生まれ。新聞、雑誌、Webなどで「大衆食文化」「食から見た地方論/メディア論」などをテーマに広く執筆・編集業務に携わる。テレビ、ラジオで食トレンドやニュースの解説なども。著書に『大人の肉ドリル』『新しい卵ドリル』ほか。共著のレストラン年鑑『東京最高のレストラン』(ぴあ)審査員、『マンガ大賞』の選考員もつとめる。経営者や政治家、アーティストの書籍やWeb企画など多様なコンテンツを手がけ、近年は「生産者と消費者の分断」、「高齢者の食事情」などにも関心を向ける。日本BBQ協会公認BBQ上級インストラクター

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