森保一は、現代の西郷隆盛!? 広島・黄金時代を築いた「名将の第一条件」とは?

7大会連続のFIFAワールドカップ出場を目指すサッカー日本代表は、新型コロナウイルスの影響で休止している活動を9月から再開する意向が示されている。長く厳しいアジアの戦いに挑むそのかじ取りは、過去に類を見ないほどに難しいものになるだろう。

チームを託されている森保一は、サンフレッチェ広島を4年間で3度のリーグ優勝に導いたことで知られる。なぜルーキー監督ながらクラブの黄金期を築くことができたのか? 「ミハイロ・ペトロヴィッチ監督がつくった攻撃に守備のエッセンスを加えたから」というのは、あくまで一つの側面でしかない。1995年から広島を取材する中野和也氏が、日本の歴史を大きく動かした“維新の三傑”西郷隆盛にも通ずるその手法と、知られざるパーソナリティを紐解く。

(文=中野和也、写真=Getty Images)

優勝を決める試合になったら、広島の人々は……

「もし、もしですよ、サンフレッチェが優勝したら、広島ビッグアーチって満員になるんですかね?」

2010年、J1に戻ってから2年目のある日、クラブのスタッフが寂しそうにポツリと言葉を落とした。僕は間髪を入れず、答えた。

「絶対に間違いないから」

確信があったわけではない。1995年からサンフレッチェ広島の取材を始めているが、スタジアムが満員になったことはなかった。1993年から1994年にかけて、広島ビッグアーチ(広島広域公園陸上競技場/現・エディオンスタジアム広島)が満員大入りになった姿をテレビでよく見かけたが、そんな歴史があったことすら、もう想像できない。公称5万人の大スタジアムに6000人台のサポーターしか入らない時代もあった。今も、平日ナイターのカップ戦では5000人を割り込むこともある。

それでも、もしリーグ優勝をここで決めるという試合になったら、絶対に広島の人々は来てくれる。2003年、J1 復帰への分水嶺となった第35節・アルビレックス新潟との首位決戦では2万6158人のサポーターが来てくれた。2008年、J2に降格しても平均観客動員数は1万人を上回った。確かに2009年から2010年と観客動員数は減少していたが、優勝となれば話は違う。

そのスタッフは「そうなりますかねぇ……」と沈んだままだったが、その2年後、その答えが出るとはお互いに思ってもいなかった。

2012年11月24日、広島が泣いた日

2012年11月24日。迎えたJ1リーグ第33節。雨が降りしきる中、広島ビッグアーチに向かう人の波は、ずっと、ずっと途切れなかった。チケットは完売。集まったサポーターは3万2724人。緩衝帯を挟んだセレッソ大阪のサポーター席を除き、スタンドは紫で埋まった。勝てばJリーグ創設20年目にして初めての優勝を手にする可能性がある。売れる席はすべて売り尽くして、スタジアムは満員になった。5万人はあくまで公称。Jリーグの基準では3万人強で満員になることが初めて明確になった。

試合前に虹が出た雨上がりのピッチ。広島が4得点を重ねるまでは晴れていた空は、試合終盤には再び雨が降っていた。サポーターはずぶ濡れになりながら、その時を待つ。優勝を争っていたベガルタ仙台は新潟にリードされていたことは、ほとんどの人が知っていた。あとは、終了を待つばかりだ。その時のことを、筆者はかつてJ's GOALというサイトで、こうレポートしている。

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ボールがタッチラインを割る。家本(政明)主審の長いホイッスル。勝った。森﨑和幸はベンチを見る。メンバー外の選手たちが、ピッチ横で待っている。

微妙な沈黙、その時間は12秒。

ミキッチが、近くにいた報道陣に確認した。「(仙台戦は)フィニッシュ?」。
「終わり?」。西岡大輝も確かめる。

一気だった。全員がピッチ内になだれこんだ。その様子を見て、サポーターもまた、確信した。優勝だ。日本一だ。タイトルだっ!!!!

佐藤寿人は顔を手で覆い、背中を震わせて、頭をグラウンドに押しつけた。森﨑浩司はピッチに大の字となり、西川周作は両手を天に突き上げた。一人歓喜の輪から離れた髙萩洋次郎は東日本大震災の被災者のために、両手を握りしめて、ずっとずっと、祈りをささげた。

泣いた、泣いた、泣いた。
選手も、スタッフも、サポーターも。

20年間の想いを込めて、積み重ねた辛苦を噛み締めて、広島が泣いた。
「皆さんの応援のおかげで、われわれは日本一になれました!! うれしいです!!!」
森保一の叫びが、広島を覆っていた雨雲を切り裂いた。苦闘の歴史を突き破る歓喜の咆哮。永遠に続くかのような感激に、広島ビッグアーチは震え続けた。

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優勝インタビューで青山敏弘は、こんなことを言った。
「優勝するとどうなるんだろうって思っていたけれど、ビッグアーチが満員になるんだね」

2004年に加入した青山はこれまで一度も満員のビッグアーチを経験していない。それは彼だけでなく、髙萩洋次郎も佐藤寿人も、広島で生まれ育った森﨑和幸・浩司の双生児も、この日はレポーターとして会場を訪れていた久保竜彦も、満員のビッグアーチでプレーしたことはなかった。この日、誇らしい優勝インタビューを受けた人物では唯一、森保一監督(当時)だけがホームスタジアム・フルハウスを経験した人物だったのだ。

成功者の戦い方を真似れば結果が出るのか?

本原稿では、「監督・森保一」を考えることがテーマとなっている。ただ、監督という職業を考える時、ただ単に「采配」とか「戦術」とか「練習方法」とか、そういうスポーツの一面だけを取り上げても意味はないと考える。1970年代のドイツを代表する名将ヘネス・バイスバイラーは「トレーニング方法やシステム、戦術などの知識をひけらかすコーチは、ほとんどが二流だ」と喝破している。この言葉が紹介された『サッカー監督という仕事』という著書の中で、著者の湯浅健二氏は「プロ選手を一つのチームにまとめることができるような力強く魅力的なパーソナリティ」を優れた監督の第一条件に挙げている。

その通りだと思う。「ポジショナルプレー」とか「ストーミング」とか、サッカーのタクティクスを説明する表現方法や概念は、メディアによって新しい言葉として表現される。だが、ジョゼップ・グアルディオラがやっていることを他の指導者がやろうとして、果たしてうまくいくだろうか。ユルゲン・クロップの戦い方を真似れば、結果が絶対に出せるのか。答えは、ここで記すまでもない。グアルディオラだから、クロップだから、成果が挙げられるのだ。

2012年から4年間に3度の優勝。決してビッグクラブではない広島の黄金時代を築いたのは、まぎれもなく監督・森保の成果だ。もちろん、前任者であるミシャことミハイロ・ペトロヴィッチ(彼もまた素晴らしいパーソナリティの持ち主だ)の育成あればこその成果であることは論を待たないが、もし森保が彼の後を引き継がなかったら優勝はありえなかったと断言していい。

チームとは、単純ではない。森保の成功は「ミシャがつくった攻撃に守備のエッセンスを加えたから」と説明されるが、それはあくまで一つの要素に過ぎない。ペトロヴィッチという素晴らしいパーソナリティを持つ監督の後に、彼とは違った魅力的な個性を持った人物が就任したからこそ、優勝という果実を手にすることができたと考えるのが、自然だろう。

指導者としての血肉になっているミシャの薫陶

前任者のペトロヴィッチは、すべてを一人で取り仕切る天才型だ。戦術面や技術の育成だけでなく、フィジカルコンディションまで自分で管理するタイプ。歴史上の人物に例えるなら織田信長に近い。一方、森保という指揮官は、攻撃の戦術は横内昭展コーチ(当時)、守備は下田崇GKコーチ(当時)、フィジカルは松本良一フィジカルコーチ(当時)とそれぞれスペシャリティを持つスタッフにある程度は任せ、その意志を統合しながらチームを構築していくタイプだ。

森保のスタイルをあえて例えるならば、幕末のヒーロー・西郷隆盛か。彼はまさに「仲間を信頼する」タイプの指揮官。大久保利通をはじめとして村田新八や小松帯刀(清廉)、自身の弟である西郷従道、そして部下ではないが坂本龍馬といった切れ者たちを心酔させるとともに、自身も徹底して信じ切る。時には敵であるはずの勝海舟や決して西郷を敬愛していない大村益次郎をもまた信じ切って仕事を進め、明治維新という大改革を成し遂げた。筆者はそう考える。

森保もまた、西郷と同様にスタッフを徹底的に信頼することで彼らの力を引き出した。練習でコーチたちが生き生きと声を出し、動き、選手たちにアプローチする。ペトロヴィッチ時代はまさに「アシスタント」だったコーチたちが、森保のもとでは主体的に動き出していた。

もろちん、どちらがいいというわけではない。繰り返すが、ペトロヴィッチはまさに天才。イビチャ・オシムの薫陶を受けた監督といわれるし、そういう要素も確かにあるだろう。しかし、彼の頭の中にあるサッカーはオシムよりも圧倒的に攻撃へとシフトしている。革命的な攻撃戦術を生かし切るためのトレーニングメニューもすべて、彼の頭の中に入っていて、誰もそれをのぞき見ることはできない。そういう天才のもとでは、誰しもが「頭脳」ではなく「手足」になる。というよりも、そうなることで初めて組織は円滑に回っていく。

森保も横内、下田も、さらにいえば現・大分トリニータ監督の片野坂知宏も、ペトロヴィッチの薫陶を受けた。それが指導者として彼らの血肉になっていることは疑いない。しかし、彼と同じことはできない。それもまた、森保は理解していた。だからこそ、コンセプトを明示した後はスタッフに信頼を寄せ、仕事を任せた。チーム・森保の力を結集し、総合力で統率を図る手法を彼は選択したのである。

だが、これもまた、誰もができるわけではない。「この人のためなら、どうなってもいい」と感じるくらいの人間的な魅力がなければ、スタッフも選手もついてこない。逆にいえば、近くにいる人物にそう思わせるパーソナリティこそ、森保最大の武器である。

例えば、横内は森保にとってマツダサッカークラブ時代の1年先輩にあたる。ペトロヴィッチ退任を受け、自分自身の進退も考えていた先輩に対し、森保新監督は笑顔でこう告げた。
「ヨコさん、また一緒にやりましょう」
「いいの? 俺、文句言っちゃうよ」
その言葉通り、横内は森保に対して積極的に意見を具申し、議論もいとわない。その言葉の数々を森保は受け止め、さらに議論を深める。

「最後には監督が決断する。それは当然。ただ、その決断に至るまでは、僕だけではなくすべてのコーチングスタッフが関わってほしいというのが、監督の考え方。監督自身、すべてをさらけ出してくれるし、だからこそ僕らも全部をさらけ出して向き合える」
2012年当時、横内が教えてくれた内幕である。

清水航平に対する信頼が生んだ「覚醒」

プロサッカーの監督という立場は、チームのマネジメントにおいては絶対的な権力を持つ。逆にいえば、権力者が仕切らないと方向性がバラバラになり、チームは崩壊する。ことプロサッカーにおいては民主主義だけでは勝てない。多数決で決まったことが勝利をつかめる保証はないわけである。現実には「俺がボスだ」と強権的に振る舞い、一方的に選手やスタッフを抑え込むような手法で結果を出す監督も多い。だが、一歩間違えればあっという間に人心が離れ、組織が一気に崩壊しやすいのもこのタイプだ。

一方で、民主的な手法を取り入れるのはいいが、人の意見を聞きすぎて自分を見失い、結果としてチームという船の舵取りが安定しなくなる場合も少なくない。意見というのは千差万別であり、人それぞれに違う。一方を取り上げれば、反対側の意見を持つ者たちは反発する。少しでもそこで迷いを見せれば「ブレている」と見られ、信頼を失う。自分の思いをさらけ出しすぎれば、監督としての引き出しのところで甘く見られることもある。

どんな手法であろうとも、監督が信頼を勝ち取るのは結果と実績しかない。もし、ペトロヴィッチが2006年、奇跡的な残留劇を成し遂げていなかったら、そもそも選手たちから慕われない。彼は2006年に結果を出していたからこそ、そしてその後も自分の考えるサッカーを提示し続けられたからこそ、2007年の降格時でも選手やスタッフ、クラブからの信頼を失うことはなかった。

では2012年、監督として初めて仕事をする森保にあったのは何か?

既に答えの一つは提示している。他者に対する徹底した信頼。それはコーチングスタッフだけでなく、選手に対しても同様である。

広島の新監督に就任した直後、森保はすべての選手に電話をかけた。寿人や和幸、青山のような絶対的な主力だけでなく、それまでほとんど試合出場のチャンスがなかった清水航平にまで。実際、移籍を考えていた清水は「自分が必要とされている」と感激し、広島残留を決めている。それだけではない。開幕前、「広島の左サイドは選手層に不安がありますよね」という記者の質問に対して「うちには(清水)航平がいますから。トレーニングでもいいプレーを続けている」と語った。当時、左サイドMFのレギュラーは山岸智だったが「俺も見てくれている」と清水は確信、監督の期待に応えようと自分を磨き続けた。

シーズン途中、山岸が血流障害のために長期離脱すると清水は左サイドのポジションを獲得。24試合出場4得点を記録し、左サイドのチャンスメーカーとして結果を出した。優勝を決めた第33節のC大阪戦、正確なサイドチェンジで2点目の起点となり、見事なドリブルでPKを奪い、3点目のゴールもお膳立て。前年まで戦力とみなされていなかった若者の覚醒は、森保の信頼から生まれた。

「僕の家でインタビューをお願いできないでしょうか?」

ただ、同じことを違う人が真似たとしても、おそらくはうまくいかない。森保という人間が醸し出す誠実さなくして、こういう行為が「信頼」という絆までは昇華できない。

彼がどれほど誠実か。筆者は実際に体験したことがある。

1995年、まだ筆者が広島を取材し始めて数カ月というタイミングで、日本代表MF森保一に取材する機会に恵まれた。アルゼンチン代表をクレバーな守備で苦しめ、クラウディオ・カニーヒアに評価された日本の「ボランチ」のパイオニア。ドーハの悲劇を経験し、広島のステージ優勝の主役として輝いた偉大な選手。スポーツライターとしてデビューしたばかりの自分にとって、緊張感しかないインタビュー。ドキドキしながら彼がやってくるのを待っていた。しかし、待てど暮らせど、彼はインタビュールームにやってこない。

予定から2時間。慌てた雰囲気で広島の広報がやってきて「すみません、森保が帰ってしまって……」。
……えーっ。
「どうやらすっかり忘れてしまっていて……、どうしましょう?」
どうしましょうって言われても……。
そうこうしていると、広報の携帯が鳴った。森保からだった。筆者に話があるとのことで、電話に出た。
「すみません。本当にすっかり忘れていて……」
間違いなく、テレビで何度も聞いた森保の声だった。
「は、はい」
「この後、予定は空いてますか?」
「はい。今日でしたら」
「だったら、ぜひ家に来てください」
えっ?
「僕の家で、インタビューをお願いできないでしょうか?」
「そ、それはもちろん」
「ありがとうございます。住所は広報に聞いてください。お待ちしています」

信じられなかった。確かに非は森保にあるかもしれないが、普通であればまず「違う日程」を模索するものだ。それがいきなり、自宅招待である。今日、取材を受けなければ、彼はきっと困ってしまうだろう。そんな想像ができる人物なのである。

自宅に行くと、美しい奥様が手料理をつくって待ってくれていた。森保は普段着に着替え、笑顔でどんな質問にも答えてくれた。ちなみに、彼とはその時、初めての長い時間のインタビューになっていた。囲み取材すら、ビビってほとんど話せていなかったのに、彼はまるで十年来の知己のような雰囲気で接してくれた。

こんなことって、ある?

その日、筆者は何度も何度も自問した。考えられない。取材をすっかり忘れて帰っていたと聞いた時は、さすがに「えっ」と思った。しかし、その後の対応はパーフェクト以上。「申し訳ない」と感じたその瞬間から、彼はどうやってリカバーすればいいのか、筆者の立場に立って真剣に考えてくれたのだろう。ほぼほぼ初対面に近い人間に、ここまでできる。それが、森保という人間性なのである。

こういう誠実な人間に仕事を任せられたら、果たして手を抜くことができるだろうか。誰よりも早く練習場に来て、選手から裏方まで分け隔てなく声をかけ、試合に出られない選手の話にじっと耳を傾ける。それを就任時からずっと続ける監督のために、チーム全員が力を尽くしたいと願った。ペトロヴィッチがつくったチームを尊敬し、そのチームの良さを生かしながら前に進もうと苦闘するルーキー監督の姿を見て、誰もが力になりたいと思った。開幕戦前日、メンバー落ちせざるをえない選手たちを思って思わず落涙してしまった姿を見て、選手たちは「絶対に勝つ」と心に決めた。

森﨑浩司との“強い絆”

こういうエピソードがある。2014年、浩司は「オーバートレーニング症候群」と診断された病に苦しんでいた。2004年に発症以来、何度も克服しているのに、また何度も襲いかかってくる。頭がぼやけ、テレビを見ても新聞を読んでも情報が情報として入ってこない。横になっても倦怠感は抜けず、言い知れぬ不安が全身を支配する。2009年、最もひどい状態に陥った彼は、生命を終わらせる瀬戸際まで追い詰められた。

2013年の途中からまたも症状に苦しめられた主力を、森保は決して見放さなかった。事あるごとに彼に話しかけ、練習場の芝生の上に座り込んで彼の言葉にずっと耳を傾けた。双子の兄である和幸ですら「そんなネガティブな話なら、もうやめようぜ」と音を上げたくらい、浩司の言葉は否定的だった。しかし、森保はただただずっと、彼の話を聞いていた。それだけではない。自分自身の身にかつて起きたこと、感じたことをオブラートに包むことなく、言葉にした。

監督も自分をさらけ出してくれているんだ。浩司はうれしくなった。そして自分も変に隠しごとをせずに、正直に監督と向き合うようになった。トレーニングもチームメートたちと一緒にすることができなくなり、早朝7時からランニングを中心に個人練習をやろうと決めた時も、練習場に行けば森保がいて、一緒に走ったりもした。

2014年3月20日、浩司は戻らない体調を苦にして「このままでは迷惑をかけてしまう。練習を休ませてください」と伝えに監督室へと向かった。

機先を制するかのように、森保は言葉をかけた。
「浩司、今はしんどいだろう」
「はい」
「そのしんどい自分も、好きだなって思ってみたら、違うかもしれないな」
「え?」
「どんな状況になっても、そういう自分を好きだなって考えてみるんだよ。マイナスのことを考えたとしても、そういうことを考える自分が好きだなって」

浩司は、この言葉にすがってみた。
「起きるのがしんどい自分も好きだな」
「ミスをして落ち込む自分が好きだな」
どんな感情も、どんな苦しみも、すべて「好きだな」で片づけることによって、不思議なことに気持ちが楽になり、症状も好転していった。
「浩司、今日はどうだった?」
「できました。今日も自分が好きですから」
この繰り返しから彼の体調は回復し、戦列復帰を果たすことができた。森保の存在がなければ、浩司の引退は2016年ではなく、あと2年は早かったはずである。

本質は自分で決める「ブレない」人物

もちろん誠実であり、周りに気配りができる人物であれば成功できるわけではない。寿人や青山が証言したように、森保は「ブレない」人物である。周りの意見は聞くし仕事も任せるが、本質は自分で決めるし、決めたら動かない。

例えば2012年、初優勝を間際にした第29節から第32節まで、4試合で1勝1分2敗と勝てない時期が続いたことがある。しかしその間、指揮官は先発メンバーもシステムも一切、変えなかった。第33節、千葉和彦とミキッチの2人が欠場したが、それは出場停止になってしまったため。そこまで結果を出し続けた選手たちとやり方に全幅の信頼を置き、まったく動こうとしなかった。2013年、第32節・C大阪に0-1と敗れ、首位の横浜F・マリノスに勝点5差をつけられた時も同様。絶望的な勝点差にもかかわらず、彼は一切、動かない。絶対の自信をもっていつものメンバーを送り出し、そして連勝して奇跡ともいえる逆転優勝を引き寄せた。

一方、「危ない」と思った瞬間の決断も早い。2014年第18節、森保サッカーのベースである守備が崩壊して鹿島アントラーズに1-5で敗れた時、彼は「サバイバル」と宣言して守備を根本から見つめ直した。この試合だけならそういう判断もなかっただろうが、第12節で横浜FMを相手に後半アディショナルタイムで2点を失って逆転負け、第15節・大宮アルディージャ戦では3点差を同点に追いつかれた。ワールドカップ中断明けの5試合で13失点という惨状は明白な危険サインだ。

森保の決断はすさまじい。エース寿人を1トップから外し、自陣深くにゾーンを構えて徹底的に失点0を求めた。絶対的なレギュラーだったDF塩谷司をスタメンから外してまでチームに刺激を入れ、運動量が豊富なFW皆川佑介が積極的に起用された。

第19節から第28節までの10試合で失点はわずか4。6試合をクリーンシートで締めくくり、10試合で勝点15を重ねて崩壊を防ぐ。そして7試合連続してスタメンから外れる屈辱に燃えたエース寿人が、第28節からの6試合で4得点1アシストの大活躍。力で先発を取り返し、一時は危ぶまれたJ1での連続2桁得点記録を6年目(J2時代も含めると11年連続)に伸ばしたことによって、2015年のさらなる栄光にもつながった。

サポーターの激しい反発と森保采配への疑問符

寿人を先発から外した采配は、サポーターの激しい反発を呼んだ。「広島のエースは佐藤寿人だ」と書かれた横断幕が掲げられ、暗に森保采配への疑問符があらわにされた。エースが先発から外された7試合の得点がわずか4得点だったことも、広島の伝統となりつつあった攻撃サッカーが封印されたことも、批判の要因だった。選手たちの中からも、守備的な戦術に対する戸惑いも聞こえていた。

しかし、そういう声に迷うことなく、森保は我が道を進んだ。結果として勝点を積み重ね、第18節時点では降格ラインの16位と9ポイント差だった状況を回避し、「残留安全ライン」といわれる勝点40を第28節でクリア。
「もちろん、実績のある選手をスタメンから外すのは苦しい。しかし、大切なのは原理原則なんです。結果を出している選手を使うという原則を歪めてはいけない」(森保)

エースが外された時、台頭したのは皆川だった。練習試合で11試合16得点と驚異的な爆発を示したルーキーは、途中出場でも相手に脅威を与え「やれる」ことを示した。第19節・サガン鳥栖戦、第22節・徳島ヴォルティス戦とゴールを決め、ポジション奪取を果たしたかに見えた。

しかし、ここからエースがエースたるところを見せつける。天皇杯3回戦・水戸ホーリーホック戦でゴールを奪うと、Jリーグヤマザキナビスコカップ(現・JリーグYBCルヴァンカップ)準々決勝対浦和レッズ戦ではベスト4進出を決めるアウェーゴールをゲット。準決勝の柏レイソル戦でも2得点、さらに決勝のガンバ大阪戦でも2得点を記録。優勝こそ逃したものの「これがエースだ」という存在感を見せつけて、ポジションを奪い返したのだ。

森保が寿人のすさまじい反発力を期待したかどうか。もちろん期待した部分は大きかったにせよ、彼はただ「原理原則」と決意した方向性によって冷静に起用を決めたのだろう。それがエースへのバネとなった。結果論かもしれない。しかし、監督が評価されるべきは、やはり結果なのである。

一度壊れたチームを立て直した森保の面目躍如

優勝した3シーズンよりもむしろ、この年の森保の振る舞いのほうが印象深い。寿人・ミキッチ・塩谷ら主力中の主力を躊躇なく外し、一方で彼らが反発力を見せてくればスタメンに戻す。極めて当たり前のことのように見えるが、この当たり前のことができそうでできない。常に選手をフラットな目線で見続け、若いからとか経験があるとか、そういう余計な情報をできるだけ排除して評価する。一方で、守備に問題が生じたと思えば劇薬を使ってでも改善し、修正できたところで少しずつ元に戻していく。最終節のベガルタ仙台戦、広島はかつて見せたポゼッション能力を発揮し、パスをつないで相手を揺さぶって2−0と完勝。夏に大きな危機を迎えたとは思えないようなサッカーを表現し、右肩上がりの状況で8位でシーズンを終えた。

和幸が「一度、このチームは壊れた」と表現したほどの危機を見事に乗り越えたこの年こそ、森保の面目躍如。2015年、34試合制になってJ1リーグ史上最多となる勝点74を獲得し、平均得点2点台と平均失点0点台を両立した初めてのチームとなった。栄冠を獲得した「最強のチーム」のベースは、この危機を乗り越えたことでつくられた。それは石原直樹や髙萩といった大立者が移籍してもなお、揺るがなかった。

本原稿ではあえて、監督・森保一の戦術や戦略的なアプローチについては言及しなかった。彼がそれを持っていないということでは、当然ない。ただ、そういう要素は監督としての必要な能力の一つに過ぎないのに、そこを大きくクローズアップされてしまっては、誤解を生じてしまうからだ。だからあえて、森保一という男のパーソナリティについて言葉を重ねた。

次の機会には、2015年と2016年のシーズンを中心に語ることで、森保一という指導者・指揮官の本質にさらに迫ってみたいと考える。

<了>

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