ホンダ、最初の黄金時代(後編):1966年に全5クラスのコンストラクターズタイトルを獲得する偉業

 1959年のマン島TTレースにエントリーしたホンダ。初参戦ながら好成績を上げ見事な団体優勝を果たした。1960には外国人ライダーを擁し、1961年にはグランプリ初優勝、その後も快進撃を続け多くのタイトルを獲得した。イギリス人ライターのマット・オクスリーがホンダの最初の黄金時代について語る。

—————————

 1962年、ホンダは新たに開催されたロードレース世界選手権50ccクラスに出場し、125cc、250cc、350ccの参戦クラスに50ccを加えた。ホンダは開幕戦スペインGPで初めての50ccに苦戦したが、ホンダのエンジニアたちが非常に驚くべきやり方で解決に乗り出した。

 ホンダのライダーはエンジニアに、このバイクには元々の6速よりさらに多くのギヤが必要だと伝えた。そして数週間後、フランスGPのためにクレルモン=フェランに到着したライダーたちは、8速のギヤボックスがついた新しいエンジンを目の当たりにしたのだ。さらにその2週間後のマン島TTでは、バイクには9速のギヤボックスが付いていた。

 このような開発ペースはヨーロッパでは前代未聞のことだった。そしてこれは日本から機器を輸送するという課題を経て実現された。それは必然的に厳しい飛行ルートとなった。東京の羽田空港からヨーロッパへ飛ぶのだが、香港、バンコク、カルカッタ、カラチ、ベイルートを経由するのだ。

 1962年末、ホンダは50cc単気筒のマシン『RC111』を、2気筒50cc『RC112』に一新。1965年には2気筒50ccを高回転・高出力化した『RC115』を投入しライダーズおよびコンストラクターズタイトルを獲得している。ホンダにとって50ccクラス最終年となった1966年は『RC116』がコンストラクターズタイトルを獲得。35.5×25.14mmのボアとストロークを備え、22,500回転のエンジンは14馬力を生み出した。これは具体的にはリッターあたり280馬力のパワー出力だ!

1965年世界選手権50ccクラス 日本GP

 だが50ccクラスのホンダマシンはミニチュアレベルの驚異で、より大型の6気筒250ccや5気筒125ccほど注目を集めることはなかった。

1967年ロードレース世界選手権250ccクラス:マイク・ヘイルウッド(ホンダRC166)

 1966年に登場したホンダの6気筒の250ccマシン『RC166』は、今でも史上もっともエキサイティングなグランプリマシンの1台として崇拝されている。6気筒のエンジンサウンドは、1960年代のレースファンにとっての音楽だった。

 RC166は多くの点で並外れていた。24バルブ、39×34.8mmのエンジンは、4気筒エンジンの先代マシンよりわずかに幅広くなっただけで、回転数は18,000回を超え、60馬力を生み出し、時速240km/150マイル以上のトップスピードを出した。

 クランクシャフトはほぼ35cmの長さがあったが、一体型のコンロッドと小型のフライホイールと組み合わされ、ほとんどのマスは中心に集中しており、クランクの振動の長さを効率的にすることができた。

 また250ccの6気筒エンジンを基に開発されたは350ccクラスのマシン『RC174』は1967年にライダーズおよびコンストラクターズタイトルを獲得している。

■ホンダ、1965年までにロードレース世界選手権の4クラスを制覇

 1965年にデビューした125ccの5気筒マシン『RC148』は、同時期に開発されていた2気筒50ccのエンジン寸法を共有しており、250ccよりも数オクターブ上の甲高いノイズを出した。さらにこのエンジンは20,000回転以上で最高出力を出すことができた。一方でライダーには8速のギヤボックスで音楽を奏でるような、高いスキルが必要とされた。

 5気筒125ccと2気筒50ccのエンジン内部は双方とも非常に小さく、メカニックはピンセットを使用してバルブコッターと砥石でタペットを研磨し、わずか0.1778mmのバルブ寸法に合わせており、設定作業も非常に時間がかかった。

 1965年までにホンダは50cc、125cc、250cc、350ccのカテゴリーを制覇した。ホンダに残された最後のひとつの目標、それは最高峰のロードレース世界選手権500ccクラスだった。

 1966年に参戦したホンダ初の500ccクラスのマシン『RC181』は、他のクラスのホンダエンジンと比べるとシンプルな作りの空冷4気筒エンジンを搭載していた。ところが、見た目とは裏腹にこのエンジンは85馬力ものパワーを発揮しすぐに勝利を収めたのだ。開幕戦の西ドイツGPでは、ローデシア出身のライダーであるジム・レッドマンの乗るRC181は、圧倒的勝利をものにしたのだ。

 レッドマンは2戦目のアッセンでも優勝し、ホンダは500ccクラス参戦の初年度でライダーズタイトルを獲得できた可能性があった。しかしレッドマンは3戦目に超高速のスパ・フランコルシャンの市街地コースでクラッシュを喫し、キャリアを終わらせることになる重傷を負ってしまった。250ccクラスと350ccクラスに集中していたマイク・ヘイルウッドがレッドマンのバイクを引き継ぎ、500ccクラスのシーズン全9戦のうち残りの5戦に出場した。ヘイルウッドは3勝したが、ライダーズタイトルを取るには十分ではなかった。

 しかし、レッドマンとヘイルウッドが達成した5回の優勝によって、ホンダは初参戦にして500ccクラスのコンストラクターズタイトルを獲得した。これによりホンダは世界選手権のコンストラクターズタイトルを50cc、125cc、250cc、350cc、500ccのすべてのカテゴリーで獲得したことになる。これは他のどのマニュファクチャラーも達成したことがない記録だ。

■ホンダの黄金時代が終焉

 1967年のグランプリシーズンは、ホンダにとって最後のシーズンとなり、復帰は10年以上後のことになる。最後のシーズンでホンダは250ccと350ccのタイトルを獲得したが、500ccのタイトルはライダーとエンジニアの手をすり抜けてしまった。ヘイルウッドはMVアグスタのジャコモ・アゴスチーニと同ポイントでシーズンをフィニッシュしたが、ポイントシステムによってタイトルはアゴスチーニに与えられたのだ。

 1968年以降、ホンダはバイク・グランプリレースから撤退し、F1世界選手権に集中することになった。ホンダの最初のF1マシンのエンジンは、偉大な6気筒250ccと他のマシンを担当したエンジニアが設計している。

 1960年代がホンダとバイクレースにとって非常に特別な時代であったことは間違いない。4ストロークと2ストロークが覇権を争い、このスポーツでこれ以前も以後も見られていないようなテクノロジー競争を引き起こしたのだ。

 エンジニアとライダーは勝利を賭けて戦うために、ファクトリーとレーストラックで限界まで追い込まれた。こうした競争に関与していた人々は、1960年代は黄金時代で、不可能なことは何もないように思えたと記憶している。結局のところ、人間は月に向かうところだったのだから!

 ホンダは1979年にグランプリレースに復帰し、1983年の最高峰クラス世界選手権で初のライダーズタイトルを獲得した。2001年、ホンダは500回のグランプリ優勝を成し遂げた初のマニュファクチャラーとなった。現在では合計800勝を超えており、133回のライダーズおよびコンストラクターズ世界タイトルを獲得している。

 それにはMotoGPにおける過去4年連続のライダーズおよびコンストラクターズタイトルが含まれている。それはマルク・マルケス(レプソル・ホンダRC213V)によるもので、彼はホンダにとって最も成功した最高峰クラスのライダーになったのだ。

1967年:ホンダRC166
1967年:ホンダRC181

© 株式会社三栄