闇の中で聞いた樺美智子の悲鳴 60年安保を生きた東大同級生の回想

By 江刺昭子

樺美智子。全学連慰霊祭の遺影

 今年は60年安保闘争から60年の節目の年だが、当時を知る人が少なくなったうえに、コロナ禍の影響もあって関連報道が少ない。中止や縮小開催に追いこまれたイベントもある。

 それでも6月10日、「戦争NO!安保60の会」主催で記念講演会が、国会近くの憲政記念館で開かれた。大学生のとき、その闘争を体験した作家の保阪正康さんが講演で「わたしたちが真にあの体験で何を得たのかを、きちんと語り継いでいないことに弱さがある」と語った。

 炎天の6月15日には「9条改憲阻止の会」主催の「樺(かんば)美智子追悼集会」があった。彼女が斃(たお)れた国会南門に遺影を供えて献花、黙祷したが、70人ほどの参加者はシニア世代ばかりで、若い人の姿はほとんどなかった。

 60年前、国民運動とも言われる反政府運動があり、学生や労働者や市民が安保反対・岸内閣退陣を要求して国会議事堂を十重二十重に取り囲んだ。樺美智子は6月15日、国会構内に突入して亡くなる。彼女はなぜ実力行使に出たのか。その理由も今ではあまり理解されていないように思う。のちの全共闘運動と混同している人も多い。

 樺美智子と当時の学生運動を知るために1冊の本を紹介したい。

 長野県松本市の図書館長などを務めた手塚英男さんが、この4月に同時代社から刊行した『薔薇雨(ばらう)1960年6月』である。「薔薇雨」は樺が亡くなった6月の雨に手塚さんが与えた名。「樺美智子との出会い・共闘・論争そして訣別」というサブタイトルのとおり、樺と東大で同級生だった著者の体験を、小説の形で描いている。著者は「私」、樺は「彼女」として物語が展開する。

手塚英男著『薔薇雨 1960年6月』

 1957年に東大文科二類(現在の三類)に入学した2人は、イギリスの水爆実験に反対するデモで出会い、米軍立川基地の拡張に反対する「砂川闘争」でもスクラムを組む。

 「私」はアルバイトをしながら、セツルメント活動(学生の地域ボランティア活動)に打ち込み、「彼女」は歴史研究会に所属して歴史を動かす原理の探求を目指す。2人は前後して日本共産党に入党、迫り来る安保闘争を予感しつつ、教員に対する勤務評定に反対する日教組の勤評闘争や警察官の権限を強化する警職法反対闘争を共に闘う。だが、やがて訣別のときがくる。

 58年12月、共産党の学生党員らが脱党して、より先鋭的な思想・方針を掲げ、前衛党・共産主義者同盟(ブント)を結成する。「彼女」はブントに加わるが、「私」は指導者たちの革命理論に危うさを感じて、たもとを分かつ。「激越な言葉は人を熱狂させるが、熱狂は冷めやすく、分解しやすい」。そう危惧したのだ。

 大学1年の秋、2人が論争する場面がある。「彼女」は地域実践に足場をおく「私」に対して「理論のない実践は不毛だ」と批判する。「私」は、実践を通じて理論を構築するのだと反論し、論争は平行線をたどる。2人の考え方や感性の違いが浮き彫りになり、やがて来る別れを予感させるやりとりだ。

 高揚する安保闘争の渦中で文学部学友会副委員長になった「彼女」は、全学連主流派として羽田事件で逮捕されるなど過激な闘争で消耗していく。「私」は自分とは別のデモの隊列のなかに「彼女」の姿を見かけるが、もう言葉を交わすことはない。そして6月15日、全学連反主流派の一員としてデモに参加した「私」は、流れ解散をして家に向かう闇のなかで「彼女」の幻の悲鳴を聞く。

 気になるのは、ブント結成の折の指導者たちの予言だ。「この新組織のもとで、誰かが命を落とす。指導部はそこまでの覚悟をして、革命の道を切り開こうとしているんだ」。予言が当たって命を落としたのは、指導部の誰かではなく「彼女」、つまり樺美智子だった。

 闇のなかで聞いた悲鳴が絶えず背中に張りついて離れなかったという著者。そのペンは、行く道を異にした彼女の行動を冷たく突き放すのではなく、その一途さを愛おしみ、どこまでも温かい。

 手塚さんは大学卒業後、出身地の松本に帰り、セツルメント運動の延長ともいうべき社会教育活動に取り組む。81歳の今も住民の学習・文化・地域づくりの活動に勤しんでいる。安保闘争は戦後大衆運動の原点、昔語りとして風化させてはならないとの思いから本書を出版したという。

 わたしもこのたび『樺美智子 安保闘争に斃れた東大生』(河出文庫)を上梓した。評伝『樺美智子 聖少女伝説』の文庫化である。樺のまっすぐな生の軌跡と、その死が社会に遺したものを、資料と証言によってたどっている。『薔薇雨』と併せ読んでもらうと、彼女がなぜ死の危険もある実力行動から逃げなかったのかも、わかってもらえると思う。

 日本共産党は当時から一貫して、樺美智子をトロッキストとして批判し、触れることを事実上タブーにしてきた。女性史分野でもほとんど研究対象にしてこなかった。しかし、タブーは解けつつあると聞く。

 党派を超え、当時の国際関係や社会状況を踏まえて、60年安保闘争全体の輪郭と細部を検証し、歴史に位置づける必要がある。あのとき形作られた日米の軍事同盟は、いまも日本社会のありようと国際的な位置を根本で規定している。樺美智子の生と死も、ノスタルジーでなく、その文脈で再把握されなければならない。(女性史研究者・江刺昭子)

樺美智子はなぜ死んだのか 日米安保60年(1)

樺美智子とは何者だったのか 日米安保60年(2)

逃げずに闘い続けた樺美智子 日米安保60年(3)

樺美智子「運命の日」 日米安保60年(4)

樺美智子、死因の謎 日米安保60年(5)

樺美智子が投げかけた問い 日米安保60年(6)

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