“先発失格”から幕張の防波堤に 元ロッテ小林雅英氏の転機となった、無死満塁の大ピンチ

日米通算234セーブを挙げた小林雅英氏【写真:編集部】

先発で3戦3敗、中継ぎ転向後初登板は無死満塁の大ピンチだった

ロッテの絶対的守護神として“幕張の防波堤”の異名を取り、その後、米大リーグ・インディアンスにも移籍し、日米通算234セーブを挙げた小林雅英氏が、“がむしゃら一筋”のプロ野球人生を振り返った。自身の投球スタイルを確立する契機となった、プロ2年目の登板をめぐるエピソードを明かしてもらった。

小林氏は山梨・都留高、日体大、東京ガスを経て、ドラフト1位(逆指名)でロッテ入り。1年目の1999年は、中継ぎ要員として開幕1軍入りを果たした。山本功児監督(2016年死去)の就任1年目。「僕は功児さんにとって最初のドラフトの1位指名だったこともあって、すごくかわいがってもらいました」と懐かしむ。

期待に応えて中継ぎで好投を重ねると、同年8月3日のダイエー(現・ソフトバンク)戦でプロ初先発のチャンスを与えられた。ところが、小林氏の受け止め方は消極的だったという。「先発志向というものが全くなかったですから」とあっけらかんと言い切る。「知りませんよ? いけるところまで全力でいきますが、もし3回でダメと思ったらダメと言います。それでもいいですか?」と念を押す新人に、首脳陣が「それでいい」と応じ、ようやく先発マウンドに上がった。結局1年目は46試合に登板し、うち10試合が先発。3完投を含め5勝5敗、防御率2.68の好成績で終わった。

翌2000年は開幕先発ローテ入りしたが、一転して3戦3敗のスタート。中継ぎと違い、先発は1試合の中で同じ打者と何度も対戦する。駆け引きやスタミナの配分をあれこれ考えるうちに、投球フォームは躍動感を失い、150キロを超えていたスピードも140キロそこそこしか出なくなった。「がむしゃらに投げて、少々甘いコースに行っても球の勢いや強気で抑えるのが本来の僕の持ち味。投げられる球種が3つしかない(ストレート、スライダー、シュート)のに、配球を考えてもうまくいくはずがなかったのです」と振り返る。

“先発失格”の烙印を押された小林氏。この時点で首脳陣には、1、2軍で先発投手として再調整させる2、中継ぎとして1軍に残す──の選択肢があったが、結論は後者だった。「後になって、実は監督はファームに落とそうと考えていて、当時ブルペンコーチを務めていた佐々木信行さんが中継ぎ転向を進言してくれたと聞きました」と明かす。

がむしゃらに1個のアウトを取りにいくのが「僕のスタイル」

こうして同年4月25日、野球人生の転機となる中継ぎ転向後初登板を迎えた。茨城・ひたちなかで行われた日本ハム戦だ。試合中盤、無死満塁の大ピンチで突然登板を命じられる。

「もうがむしゃらに、開き直って投げるしかありませんでした。アドレナリンが出まくりました」という精神状態が功を奏した。田中幸雄氏を三振、上田佳範氏(現・DeNA外野守備走塁コーチ)を併殺打に仕留め、無失点で切り抜けた。「その時、自分は配球で恰好よく打者を抑えるタイプではない、その時の100%のボール投げ込み、がむしゃらに1個のアウトを取りにいくのが僕のスタイルだと気付きました」と深く頷く。

中継ぎで快投を続け、同年8月17日の日本ハム戦では、ついに不振の守護神ウォーレンに代わってクローザーを務めプロ初セーブ。以後、抑えに定着した。“幕張の防波堤”の完成である。

小林氏は今、あの中継ぎ転向後初登板が無死満塁でなかったら、その後の輝かしい活躍はなかったかもしれないと考えている。

「イニングの頭から余裕を持って登板していたら、逆にヒットを打たれてパニくって、うまくいかなかった気がします。自分のスタイルをつかめずじまいだったかもしれません」。そんな過酷な場面で投入した山本監督の真意を、もはや確認することはできない。「意図があって、あえてあの場面で投入したのか、それともたまたまだったのか、天国に行かれた今となってはわかりません。いずれにしても、今の僕があるのは功児さんのおかげで、頭が上がりません」と亡き恩人に思いを馳せる。

ロッテで9年間、インディアンスで2年間活躍後、巨人とオリックスに1年ずつ在籍し、2011年限りで現役を引退した。日米通算530試合に登板したが、先発はロッテ1、2年目の計13試合のみ。40勝39敗234セーブ。リリーフに徹したプロ野球人生だった。

一流の先発投手は、試合中に“ギアを上げる”ことができる。普段は140キロそこそこの球速に抑えていて、ピンチになると別人のように150キロ超を連発し得点を許さないタイプだ。

「僕にはそれができませんでした。常に100%で投げることしかできない」と苦笑する小林氏。調整法も、先発ローテ要員として登板日に向け1週間かけて準備するのは苦手だった。リリーフは毎試合登板の可能性があり、ブルペンで肩を作らなければならないが、性に合っていた。「僕は“発表会”のように、時間をかけて準備するというのは嫌い。毎日、朝起きて自分の体調をみながら準備するという、短いスパンの繰り返しの方が向いていました」と笑う。

生まれながらのリリーバーといえるかもしれない。そんな自分の本質に気付かせてくれたのが、無死満塁の大ピンチだったのだ。(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)

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