解散風の正体は? 使用人が雇い主のクビ切る不合理 憲法の定めなき「首相の大権」

By 佐々木央

2017年9月、記者会見で国難突破解散を表明する安倍首相

 またぞろ解散風が吹いている。7月21日配信の共同通信記事は、自民党幹事長の発言を伝えている。

 ―自民党の二階俊博幹事長は21日の記者会見で、早期の衆院解散・総選挙に重ねて否定的な見方を示した。(中略)「政局の問題だけで政治を左右するのはいかがなものか」と強調した。解散は首相の専権事項だとし「求められたときは意見を言うが、今は安倍晋三首相から要請があるわけではない」とも語った―

 首相は例によって、解散は「頭の片隅にもない」と否定し続けている。ところが「解散については首相はうそをついてもいい」というのが、永田町の常識だという。だから首相が否定しても解散風は収まらない。

 国のトップが公然と社会を欺くことを許容する“常識”についても、言いたいことは数多あるが、今回は二階氏がさらりと言及した「首相の専権事項」にこだわりたい。 (47NEWS編集部、共同通信編集委員=佐々木央)

 ■憲法7条は天皇条項

 議員は究極の公僕ともいえる。選挙で選び、給料を払っているのは、わたしたち市民だ。まともに働かなかったり非違行為があったりしたらクビにするのも、本来は市民である。国会議員をクビにする手段として、憲法は「除名」という手段を用意する(58条2項)。

 除名には各議院の出席者の3分の2以上の議決が必要になる。民意を代表する国会で、過半数よりも多い特別の多数決で決するのだから、これこそ雇用主によるクビといえよう。

 ところが、各議員と雇用契約を結んでもいない首相が、500人近い衆院議員をいっぺんに“解雇”できるという。それがいま吹いている解散風の正体である。

 現行の議院内閣制の下では、国会が首相を指名する。首相はむしろ、国会に雇われている立場だ。その首相が、自分にとって最も都合のよい時期に、自らの“雇用主”ともいうべき衆院議員全員をクビにする。「選挙して出直して来い」と言えるのだ。

 これを永田町では「首相の大権」とか「伝家の宝刀」と呼ぶ。二階氏の「首相の専権事項」という言い方も同じだ。メディアもそれを受け入れ、無批判に報道することが多い。だが、そんなおかしな話があっていいはずがない。

 さすがになんの法的根拠もないのはまずいと思うのか、こうした批判に対しては「憲法7条が根拠だ」と反論が返ってくる。だから「7条解散」と呼ぶ。

 憲法7条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行う

 驚くことに、ここには「衆議院」も「解散」の文字もない。考えてみれば当然だ。憲法1条から8条は天皇条項である。このうち7条は、政治に対する天皇の関与を形式的・儀礼的行為に限定する規定だ。

 7条は「左の国事に関する行為」として「憲法改正や法律、条約の公布」(1号)、「国会召集」(2号)、「恩赦の認証」(6号)「栄典の授与」(7号)などを列挙する。これらは形式的行為であるから、その背後には実質的な決定者が存在し、決定者は実質的な決定権を握っているということになる。

 7条によれば、天皇の行為について助言と承認をするのは内閣であるから、内閣にその決定権があるというのが、論理的帰結となる。

 ■内閣総辞職こそ原則

 問題は7条3号「衆議院を解散すること」である。助言と承認をするのは内閣であるから、解散を決めるのは内閣だ。憲法学の通説はそう説く。ここまではいいだろう。

 では、その決定権は無制限に行使できるのか。憲法自身が何も規定していないなら、白紙委任と考えることもできるかもしれないが、そうではない。衆院が解散する場合として、憲法自身が言及するのは69条だけである。

 憲法69条 内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、または信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。

 内閣が衆院から信任されなくなった場合、総辞職するか、衆院を解散するか、道は二つに一つになる。解散の決定について憲法が書いているのは、これだけだ。普通に考えれば、それを受けて、その場合に限って、7条が天皇のなすべき形式的行為を示していることになる。

 ほかの国事行為もそのような構造で規定されている。例えば、憲法改正については、96条に「各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し…」と手続きが定められている。これ以外に、憲法7条を根拠として内閣が自由に憲法改正を発議できるなどという議論は聞いたためしがない。

 素直に解釈すれば、内閣が衆院を解散できるのは、衆院の信任を得られなくなったときだけだ。こう解するなら、国会議員の選挙は任期満了が原則となる。それは「国会は国権の最高機関」(憲法41条)という宣明にも合致するだろう。首相に全員の罷免権を握られているようでは、とても最高機関などとはいえない。

 ころころと勝手に民意を問うのではなくて、4年に1度、きちんと選挙をする。その議員が4年間、責任をまっとうする。憲法はそれを原則としている。

 現状は、幻ともいうべき「首相の大権」の前で、国権の最高機関の議員たちが右往左往している。いや議員たちばかりでなく社会全体が、いつ抜かれるかもしれぬ「伝家の宝刀」にきりきり舞いさせられている。滑稽で悲しい。

 ■恣意的解散の悪例

 衆議院の解散については、いくつもの憲法学説がある。その中で、内閣不信任の場合にだけ解散を認める「69条限定説」は少数にとどまる。ほかの学説は、濃淡の差はあっても、どうやって内閣による一般的解散権を認めるかという方向から、理論を構築してきた。

 2015年の安保法制の審議のとき、反対する学者や政治家によってしばしば語られたのが「立憲主義」だった。憲法は市民を縛るのでなく、政府を縛る。私はそう理解した。それなのに、憲法にも書いていない「大権」を首相に与える憲法学者たち。こじつけにも見える憲法解釈に挺身してきたのはなぜか。

 その底には、民意を問う場面(選挙)が増えるのは、民主主義に資するという考え方があるようだ。なんにせよ、選挙をやるのはいいことだという楽観が、7条解散を後押しする。

 それでは憲法を守る(守らせる)はずの最高裁はどうしてきたのか。

 1950年代、衆院議員だった苫米地義三(とまべち・ぎぞう)が7条解散の違憲・無効訴訟を起こした。最高裁は60年「高度に政治性のある国家行為は裁判所の審査権の外にある」という「統治行為論」を持ち出し、憲法判断を回避した。「憲法の番人」が、その使命を自己否定した最低の判決だった。

 政治のダイナミズムの中で、この「ちゃぶ台返し」とも呼ぶべきとんでもない権限が、どのように使われるのか。1回の総選挙に国費がいくらかかるのか。そのような現実的考察を欠いた法解釈と運用が、積み重ねられてきた。

 そして実際、首相による恣意的・党利党略的・私利私欲的解散は続いている。誰しも記憶に新しい例を挙げよう。2017年9月、臨時国会の冒頭で衆院を解散することを決めた安倍首相は、記者会見で次のように述べた。

 ―この解散は「国難突破解散」だ。急速に進む少子高齢化を克服し、わが国の未来を開く。北朝鮮の脅威に対して、国民の命と平和な暮らしを守り抜く、この国難とも呼ぶべき問題を、私は全身全霊を傾け、国民とともに、突破していく決意だ―

 国難として挙げているのは「少子高齢化」と「北朝鮮の脅威」である。それが解散の法的根拠にならないことは既に述べた。そして、いわゆる「解散の大義」と呼べる代物でさえなかったことは、その後の日々が証明している。

 今度は何を捏造するのだろうか。

© 一般社団法人共同通信社