山本寛斎さんが21日、急性骨髄性白血病のため死去した。76歳だった。英国のロック歌手デビッド・ボウイさんらの衣装を手掛けるなど国際的なファッションデザイナーとしての地位を築く一方、愛知万博に携わるなどイベントプロデューサーとしても活躍した。一つの枠にとらわれることなくエネルギッシュに駆け抜けた生涯を写真で振り返る。(47NEWS編集部)
山本さんはデザイナーのコシノジュンコさんに師事し、1967年、若手の登竜門「装苑賞」を受賞し頭角をあらわす。71年にロンドンで日本人として初めてファッションショーを開催。歌舞伎に着想を得たデザインや演出で日本の美を表現し大好評を得た。
以降もパリ・コレクション(74年)やニューヨーク・コレクション(79年)に参加したほか、デビッド・ボウイさんからの依頼を受けて衣装をデザインした。
日本を代表するデザイナーとなった山本さんだが、90年代になると次第にファッションの枠を超えた活動が中心になっていく。
93年には日ロ交流を深めるため企画した「スーパーショー」(「ハロー!ロシア」)をモスクワ「赤の広場」で開催。幻想的な音と光の演出のなかで騎馬武者や、天使に扮(ふん)した日ロ両国の子供たちの行進などが盛り込まれたイベントは大好評で、約12万人を動員した。
同様の「スーパーショー」はベトナムやインドでも開催した。国内でも愛知万博(2005年)のオープニングをプロデュースするなど、多くのイベントに携わった。
また、2008年には東京・日暮里と成田空港を結ぶ京成電鉄の新型スカイライナーの内装・外装をデザイン。自身、初めて手掛ける鉄道車両のデザインについて、山本さんは当時の発表会で「武田信玄の『はやきこと風の如く』の風をコンセプトにした」と明かしている。
近年も「日本元気プロジェクト」を毎年のように開催。今年もオンラインでの開催を予告するなど精力的に活動していた一方で、3月には急性骨髄性白血病と闘病中であることを自身のインスタグラムで明らかにしていた。
訃報を知らせる山本寛斎事務所の公式サイトには、「もう一度『元気』な山本寛斎の姿をお見せしたい」と懸命に治療に励んでいたこととともに、次のような言葉が記されている。
「『人間は、無尽蔵のエネルギーを持っている。』どんなに苦しい時であっても、その気持ちを忘れずに、果敢に挑戦し続けました」