著者インタビュー|高樹のぶ子『小説伊勢物語 業平』 千年読み継がれてきた歌物語の沃野に分け入り、美麗な容貌と色好みで知られる在原業平の生涯を日本で初めて小説化。「古典との関わり方として、私は現代語訳ではなく小説化で人物を蘇らせたいと思ってきました」(「あとがき」より)という著者に業平の魅力などを語っていただきました!

たかぎ のぶこ1946年山口県生まれ。80年「その細き道」で作家デビュー。84年「光抱く友よ」で芥川賞、94年『蔦燃』で島清恋愛文学賞、95年『水脈』で女流文学賞、99年『透光の樹』で谷崎潤一郎賞、2006年『HOKKAI』で芸術選奨文部科学大臣賞、2010年「トモスイ」で川端康成文学賞。芥川賞をはじめ多くの文学賞の選考にたずさわる。2017年、日本芸術院会員。2018年、文化功労者。(写真撮影:高山浩数)

自ら権力から離れて

──古典『伊勢物語』の世界を小説にした『小説伊勢物語 業平』。平安の雅な世界にどっぷりと浸ることができました。美しい日本語の心地よいナレーションを通じて、平安の世のことどもを味わっているような気持ちでした。

高樹 ありがとうございます。どうしたら業平の和歌を地の文に取り込みながら、流れるような文体で描くことができるだろうか、と試行錯誤を重ねました。

そうして『伊勢物語』の構成に沿って、15歳の弾ける若さの業平から、西暦880年に56歳で現世を旅立つ業平までを小説で描くのはとても楽しい時間でした。よい男に出会い、良い男と添い遂げ、雅な夢を見させてもらったように思います。

――話の骨子としては『伊勢物語』に沿いながらも、『業平』と読み比べると、『伊勢物語』では誰とは明示されていないエピソードが特定の人物の話に結び付けられていて、「こう来たか!」と発見する楽しみもありました。

高樹 『伊勢物語』では歌の前に詞書きがあり、どういう状況で誰との間で交わされた歌だったのかが書かれています。その短い詞書きが、小説的、物語的な世界を喚起させる力を持っていて、情景が浮かぶだけではなく、「この話は業平の壮年時代の話なんだろうな」などと想像をき立てるんです。

──業平といえば恋多き色男、プレイボーイとして知られていますが、『業平』を読んでイメージが変わりました。女好き、好き者というよりは、男性にも優しい「人たらし」なのではと。

高樹 業平自身、父親が平城天皇の息子・阿保親王で、母親が桓武天皇の娘・伊都内親王という高貴な血筋に生まれました。阿保親王は息子の業平・行平には在原朝臣姓を賜与して、臣籍降下させています。

当時、名字を下賜されることは、天皇の家臣になることでしたから、業平は天皇の直系の孫でありながら、もう天皇になることはない。権力の本筋からは外れることになりました。

書き始める前は、「権力から零れ落ちたからこそ、和歌と女性にエネルギーを向けたのかな」と思っていたのですが、いざ業平の人生に寄り添ってみると、彼は意志を持って権力から離れたのではないかと思うようになりました。

そして自由を得て、優れた和歌を残した。この「貴種流離譚」こそ、のちの「わびさび」につながっているのではないかと思いますが、その日本的な美のありかたを最初に体現したのが業平なのではないでしょうか。

自身のなかにそうしたものがあるからこそ、女性だけでなく男性にも優しくできるんでしょうね。特に、権勢から外れた男性たちへの心配りを忘れない。実に素直な歌を詠み、和歌を通じて人の心を動かす能力に長けていた。それゆえに天皇から任された任務もあります。業平の「人間力」は、多くの人の認めるところだったのでしょう。

在原業平(狩野探幽『三十六歌仙額』)

泣いてもサマになる男

──妻(和琴の方)の父、つまり業平の義父である紀有常は妻が出家してしまって寂しくしている。しかも零落していた有常は、妻に衣一つ送ってやれないと嘆いているのを知って、業平はすぐに衣や寝具に歌を添えて贈っています。

高樹 業平の心配りは自身の利益や世渡りを考えてのことではなく、誰かが寂しい思いをしていたら、何とか慰めてあげたいという心ゆえ。人間に対する情の濃い人だった。

──有常も思わず、「有難くて私の袖も涙に濡れています」と歌を返しています。業平もそうですが、この時代の男性はよく「袖を濡らし」ますね。

高樹 泣いてもサマになる男、というのは今も昔も限られているのでしょうけれど(笑)、業平はサマになったんでしょうね。

『源氏物語』の光源氏もよく泣くのですが、『伊勢物語』から約100年後に書かれた『源氏物語』は、『伊勢物語』と業平を参考にして書かれたとされていて、たしかにずいぶん重なるところがある。

たとえば、『業平』では「若草」の章に当たりますが、兄妹のような関係にあった幼い少女、恬子内親王に業平が箏の手ほどきをする場面があります。そしてその少女の手つきに艶めかしいものを感じ、思わず歌を詠む。『伊勢物語』では、「男」が「妹」を見て「若草のようなあなたが、いつか他の男と契を交わすなんて……」という歌を贈る段です。

これは、『源氏物語』では「若紫」のエピソードに重なります。源氏は、憧れていた藤壺にそっくりな少女を見かけ、のちに彼女を自分好みの女性に育てるべく引き取るわけです。

──『伊勢物語』に比べると、紫式部の書き方は直球ですね。

高樹 成長株を買うというんでしょうか(笑)、当時の女性は14歳、15歳といった年齢で妻になるのが普通でしたから、それより幼い少女に対しても、男性が「そういう目」で見ることもあったんでしょう。

紫式部が『伊勢物語』を参考にして『源氏物語』を書いたのと逆に、私は『源氏物語』を参考にしながら、『伊勢物語』の業平を描いたんです。

たとえば、『源氏物語』には「雨夜の品定め」という有名な場面があります。源氏のもとに源氏よりも女性経験の豊富な男性が集まって、雨の降る夜に女性談議に花を咲かせる。私はこれを「逆輸入」して、東下りの旅に出た業平とおつきの者たちが、みんなで女性に関するエピソードを語りながら歌を詠むという場面を盛り込みました。

──時代が下ったからこそ、できることですね。

高樹 そうですね。『伊勢物語』は現代語訳はもちろんありますが、業平の小説として描く試みは、一千年の間、誰もやらなかったことなんです。小説として業平を描くに当たって、「紫式部が『伊勢物語』を参考に『源氏物語』を書いたなら、今度は私が『源氏物語』を取り込んで業平の人生を紡いでもいいのではないか」と思って。これも面白い試みになったんじゃないでしょうか。

強さや意志を持った女性

──『業平』には女性も多く登場しますが、それぞれとても個性的です。単に業平の相手役としてだけではなく、強さや意志を持った女性として描かれている。最も強い女性は、藤原高子でしょうか。

高樹 高子は「器の大きな女性」として描きたかったという思いがあります。高子は、当時権勢を誇っていた藤原家に生まれ、のちに清和天皇の妻となり、陽成天皇の母となるのですが、若き日に業平と恋仲になり、一度は二人で駆け落ちを試みます。

──「芥川」の段ですね。夜陰に紛れて高子を連れ出した業平を、高子の兄の基経、国経があとをつけて取り返す。ハラハラしながら読むと同時に、愛する女性から一瞬、目を離した隙に奪回されてしまった業平の喪失感や後悔の念が歌にも詠まれていて、非常に印象深い場面です。

高樹 藤原家からすれば、高子が天皇に嫁ぎ、子供が天皇を継げば権勢を継続できる。まさに「宝」です。それを権力から外れた業平のものにされてはたまらない。そうと知って連れ出す業平もなかなかだけれど、相手も必死です。

この駆け落ち劇が失敗に終わり、業平自身は「東下り」をして、一時とはいえ京から離れざるを得なくなりました。

高子もおそらくこのことがあって、入内が25歳と、当時にしては遅くなったのですが、高子自身はこの経験を経て大きく成長するんですね。清和天皇の妻となり、親王を生んだだけではなく、自身の運命を知ったうえで、自分には何ができるかと考えた。高子の場合は、和歌を文化としてこの国に残すことでした。

──業平との間で、「和歌」が絆になっていたからこそでしょうか。

高樹 それもあったかもしれませんが、より大きな視点で考えていたのでしょうね。当時は「漢詩こそ男の教養」という風潮が強まっていました。しかし高子は、「女には女の文化があるのよ、和歌を通じて思いを伝えあうという日本の文化が」という思いを強く持っていた。歌会を開いて業平を含む歌人たちを招き、竜田川の紅葉を描いた風を見ながら歌を詠んではどうか、と提案しました。

この時、業平が詠んだのが「ちはやぶる神代も聞かず竜田川 唐紅に水くくるとは」という有名な歌です。

在原業平と藤原高子(月岡芳年画)

神に嫁いだけれど……

──この場面も、雅な歌会の情景とともに高子の高貴さと女性としての覚悟のようなものを感じました。

高樹 彼女の思いが、のちに『古今和歌集』として結実したわけですから、本当に「大きな女」に成長した。皇后、皇太后としても「国母」ですが、日本文化の母でもあると言えるのではないかと考え、小説ではそこにスポットを当てました。

「あなたのおかげで歌人が育って、日本文化が大きく発展したんですね」という思いを込めて。

──もう一人、「女性の意志」を強く感じさせたのが、文徳天皇の娘の恬子内親王です。業平とは先ほども少し触れたように兄妹のような関係だったのですが、文のやり取りなどをし、お互いに気持ちがあった。しかし、彼女は未婚のまま「斎宮」として伊勢神宮に仕える身となります。

高樹 この時代の斎宮は生涯独身で、天皇が代替わりして次の斎王が指名されるまでは都に戻ることもなく、親の死に目にも会えないという厳しい境遇でした。神に嫁ぐようなところがあって、まさに人生を捧げなければならなかったんです。

斎宮として伊勢に派遣される内親王は、通常は天皇から「別れの御櫛」を授かるのですが、恬子はそれをもらえなかった。藤原家と、恬子の血筋である紀家の対立という政治的理由もあったのでしょうが、これに対し、業平は「恬子様は御櫛も賜らずに伊勢に行くことになってお可哀想だ」と心を痛めていたんですね。

──そして、業平が朝廷の「狩りの使い」として伊勢に赴いた際に、恬子に会います。小説では、さすがの業平も「斎宮をわがものにしてよいものか」とためらって最初の夜は手を出せなかった。しかし尾張の旅から戻ってきて、ようやく結ばれる。

高樹 「一夜限り」という恬子の意志ですよね。「御櫛も賜れないひどい扱いを受けたんだから、一度くらいは好きにしてもいいだろう」と開き直ったという解釈もできるかもしれませんが、「なんとかもう一夜」とすがる業平を遠ざける姿勢には潔さを感じます。

この時のことで、恬子は業平の子を妊娠し、出産。斎王が男性と共寝をしたうえに妊娠・出産までするというのは相当なことです。しかも、「流行り病で外に出られない」と世間にまでついて成し遂げるんですから。

当時は、いまよりずっと出産が命にかかわる大事業ですから、覚悟も相当なものですよね。彼女も運命を受け入れながらも、自分の意志も全うした強い女性です。

実は……牛車はとてもうるさい!

──のちに伊勢と名乗ることになる恬子の侍女・杉が、業平と恬子の間に生まれた子供を業平に見せに行く場面は、読んでいるこちらもこみ上げるものがありました。互いの乗る牛車同士を近づけて、そっと赤子の顔を覗き込み、業平はここでも涙に濡れる。

高樹 この場面はもちろん創作なのですが、恬子が業平の子供を産んだのは事実だったようです。わが子との対面は感動の場面なんですが、一つお話ししておくと、牛車というのはとてもうるさいそうなんです。

──そうなんですか! しずしずと近づいてきて、そっと御簾を上げて……という風景を思い浮かべていました。

高樹 私は皇太子時代の天皇陛下にお会いする機会があって、直接お話しさせていただいたこともあります。そうした時に、「今度、殿下のご先祖様のお話を書くんです」と申し上げた流れで、陛下が「私も牛車について研究しています」と仰られました。しかも本物の牛が引く牛車に乗る体験をされたというので、これはと思って乗り心地を伺うと、「音がとてもうるさかった」と仰られて。

京都御所のなかを移動されたようですが、かなり大きな車輪の要所要所に鉄が打ち込まれていて、舗装されていない砂利道のようなところを石を蹴散らしながら進むために、ものすごい音がするようです。その後、宮内庁経由で牛車の資料をたくさんいただきました(笑)。

──それはすごいお話ですね(笑)。話を戻すと、その後、伊勢は晩年の業平の側に仕えることになります。

高樹 伊勢は、この小説では非常に重要な役回りです。なぜ、業平の生涯と歌をつづったものが『伊勢物語』と名付けられたのか。実際には諸説ありますが、誰にも本当のことは分からない。

小説を書くにあたっては、業平ゆかりの地を取材したり、斎宮の研究者に話を聞くなどして、いろいろな説や言い伝えに触れました。それによると、伊勢という女性が業平の最後の妻だった、というのはどうやら事実らしい。

しかも恬子に仕えていた女性が、のちに業平の妻となったという説もあると聞いて、「その説、いただきます!」と(笑)。最後に業平の側にいた女性の名前が『伊勢物語』という題名の由来だった、として描きました。

小説で描いた伊勢は、他の女性に比べると少し現代的な感覚を持った女性です。恬子と業平の関係や、その間にある感情はもちろん知っている。若い頃には「私はどうですか」と業平に売り込むも、「君はまだ子供じゃないか」とあしらわれてしまう。業平は伊勢の才覚を認めてはいたんですけどね。

しかし、斎王の立場を降りて出家する恬子から「業平の妻になりなさい」と言われると、「こんな老人は嫌!」と断ってしまう。

幼女を見ても「いい女になりそうだ」と欲情する業平が、晩年、伊勢から「こんな老人は嫌です」と逆襲されることになるわけです(笑)。

──ここは思わず笑ってしまいましたが、性愛関係でない女性とのやり取りが、むしろ晩年の業平に深みを持たせている気がしました。最後に側にいた女性と、とても深い信頼関係で結ばれていたんだなと。

高樹 だからこそ、業平は自分の生涯の歌を預けたのだろうと思います。

最期に詠んだ歌は、「つひに行く道とはかねて聞きしかど 昨日今日とは思はざりしを」。「いつか死ぬものだとは知っていたけど、昨日今日とは思わなかったよなあ」と歌を詠んで業平はこの世を去った。

伊勢の側で、軽やかにこの世を離れていく姿が浮かびます。「この物語の主人公は幸福のうちに旅立った」と締めくくる物語を、伊勢に託したんですね。

貴種流離譚がわびさびに

──なぜ業平は、これほど長く日本人に愛され続けたのでしょうか。

高樹 一つはやはり色香。日本人は色の世界、男と女の話が好きなんでしょうね。しかも権力闘争からは距離を置いた男が、歌や心遣いの細やかさで多くの女性と関係していくというのがいい。権力者が色恋を語っても、それは力でどうにでもできてしまったり、打算めいたものが渦巻いてしまいますが、業平のような権力から離れた恋については「これこそ純粋なものだ」と人々に感じさせたこともあるのでしょう。

むしろ業平の場合は、女性のほうが並々ならぬ立場に就くことになって、一夜限りの恋になってしまったりもする。権力から外れた男のままならぬ恋だからこそみんな興味を持ったし、応援もしたんじゃないでしょうか。

もう一つは、冒頭でも触れた「貴種流離」の美です。海外にも、高貴な生まれの人が苦労の末、成長して為政者になるという話はあります。しかし業平は、権力の主流に乗らず、だからこそ風流人であるというふうにも思われています。

これは日本の美の感覚と通じるものがあって、私たちが思っている日本の美──「もののあはれ」や「わびさび」というようなもの──の原型を作ったのは業平が最初だったんじゃないか、とさえ思います。

──「世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし」という業平の有名な句は、一千年後の私たちでも、思わずそのとおりと思ってしまいます。

高樹 実は、この当時の桜はいまの「ソメイヨシノ」とは違うので、ハラハラと散るわけではないのですが、それでも桜が咲いた、散ったと気がかりなのは、いまの私たちも同じですよね。

──桜と自分とを重ね合わせるのも日本人的な感覚です。高齢になると「来年の桜は見られるかしら」と。

高樹 人は必ず衰える、そして死を迎える。そのことをどう受け入れるか。業平は若い頃の女性たちとの巡り合いを残すとともに、それだけではない死へ向かう自らの旅路までも歌に残しました。衰え、ついに消えゆくその姿にさえ、美と悲しみが同居しうるのだ、という日本の美的感覚を最初に言葉として表したのは業平だった──。

もしそうだとすれば、日本人の意識にとてつもなく大きな価値観をもたらしたことになりますね。

(初出:『Hanada』2020年7月号、インタビューアー:梶原麻衣子)

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