『あめつちのうた』朝倉宏景著 細やかに描かれる甲子園の1年間

 本書のすごいところは、実在する球場の、実在する会社について、綿密な取材を重ねて書かれているという点だ。物語の舞台は甲子園球場。その整備のすべてを担う「阪神園芸株式会社」の1年間が、主人公の成長とぴったり並走している。「グラウンドキーパー」。ある時は重機で、ある時はトンボを操って、かの甲子園の地面を美しく整備する彼らの1年間が、実に細やかに描かれてゆく。

 主人公は高校を卒業して同社に入った青年「大地」である。野球に並々ならぬ思い入れを抱く父親のもとに生まれ、でも大地は幼い頃から運動神経が皆無で、父親を失望させた(と大地本人は思っている)というコンプレックスを抱いている。父の気を引こうと、高校時代は野球部のマネージャーになり、今は「グラウンドキーパー」として甲子園で働いている。けれど、父の関心はもっぱら、運動神経抜群に生まれついた弟の傑(すぐる)に注がれている。

 大地の1年先輩にあたる同僚の「長谷さん」は元高校球児だ。ピッチャーだった彼は3年生の夏、甲子園で、こっぴどい使われ方をして、肘を壊して野球をあきらめた。不完全燃焼の思いをこじらせて、周囲につらく当たっては、毒舌をまき散らしながら暮らしている。

 大地の高校時代からの親友「一志(かずし)」もまたピッチャーである。最後の甲子園で、マネージャーだった大地のために甲子園の土をジャムの瓶に入れて、分けてくれる優しい少年だ。男性をまっすぐに愛する彼は、しかし所属したチームで大変な偏見に遭遇する。

 そんな彼らが、それぞれのコンプレックスからどう立ち上がるか。本書はそこに心を砕いている。ここに描かれる青春を、若者だけのものと思ってはいけない。今なおコンプレックスをこじらせながら、だましだまし、自分をごまかしながら生きる大人はたんまりといるはずだ。奥の方にしまいこんでしまった気の重い荷物が、ふと思い出される。心の中で地団駄を踏みながら読み進む。

 親との関係や、無関係な誰かの好奇の視線など、壁にぶち当たる彼らを支えるのは「プロフェッショナルになりたい」という一心だ。ある者は、野球の。ある者は、グラウンドキーパーの。ただ金銭を稼げばいいのではない。そこに流れる信念、職人気質。願わくば、この読後感を噛み締めながら、夏の甲子園大会を観戦したかった。

 それぞれの登場人物の、「ストーリー」というより「実感」が連ねられた一冊である。この中の誰かが、かつてのあなただ。

(講談社 1600円+税)=小川志津子

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