桂文枝さんが語った「父と戦争」

70年の時を経て遺骨と初対面  #8月のメッセージ

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 テレビ番組「新婚さんいらっしゃい!」の司会などで知られる落語家、桂文枝さんは太平洋戦争中に大阪府で生まれた。軍に召集された父親は、文枝さんが生まれる前に亡くなり、古い写真でしか見たことがない。テレビで見る明るい姿とは対照的に、文枝さんはとつとつと戦争や父親のことを語った。(共同通信=小野田真実)

インタビューに答える桂文枝さん

 ―終戦2年前の1943年生まれですが、戦争に関する記憶はありますか。

 戦時中のことはまるで覚えていません。終戦を迎えたときはまだ2歳。現在の堺市にある親戚の家に母と疎開していたと聞いています。軍に召集された父は既に亡くなっていました。父がいないことをきちんと認識したのは小学校に上がる前くらいです。

 戦争にまつわることで覚えているのは、タンスの中に防空頭巾が入っていて、僕の名前と血液型が書かれていたことや、疎開先だった家の物干し台の下に防空壕が残っていたことです。その後に移った大阪市大正区は、焼夷弾の被害をかなり受けた場所でした。小学校には親を亡くしたという生徒も数人いました。戦後もずっと、僕の生活には戦争がつきまとっていました。

 ―当時はどのような生活でしたか。

 疎開先を離れた後、母は材木工場に住み込みで働き、2人で3畳間で暮らしていた時期もありました。その後、母は自分の兄の家に僕を預け、旅館に勤めていました。苦労している様子はあまり見せませんでしたが、1人で子どもを育てるのは大変だったと思います。

 ―お父さんはどんな方だったのでしょう。

 母は父に関する話を一切、しませんでした。自分が結婚して父親になってから、どういう人だったのか、どんな思いで軍に入ったのだろうと考えるようになりました。父は召集される前は銀行員で、同僚だった人たちによると、寄席に通ったり、落語をしてみせたりと、ひょうきんで明るい男だったそうです。お笑いの世界に自分が引かれていった理由がよく分かった気がしました。

 ―亡くなった経緯は分かっているのですか。

 父の墓には遺骨が入っておらず、どうやって亡くなったかもずっと分かっていませんでした。ところが7年前、テレビ局が番組の企画で調べたところ、大阪城の南にある「真田山旧陸軍墓地」に遺骨と墓碑があることが分かりました。

 父が亡くなってから70年近くがたっていました。記録を調べると、父は結婚して僕をもうけてすぐ、27歳で赤紙(召集令状)を受けました。訓練中に体を壊し、大阪市内の陸軍病院で亡くなりました。

「真田山旧陸軍墓地」にある桂文枝さんの父、河村清三さんの墓碑=2月、大阪市

 ―遺骨と対面したときはどんな気持ちでしたか。

 それまで父の存在は漠然としていて「本当におったんかな」という感じでしたが、実際に遺骨を目にして「やっぱりいたんだ」と、胸に突き刺さってきました。小さい子どもを残し、どんな気持ちで死んでいったのだろう。想像すると悲しかったですね。

 戦争は本当に悲惨なことだとつくづく思います。戦争に関する本を読んだり映画を見たりする機会も多いですが、なぜもう少し早くやめられなかったのか。原爆が二つ落ちてからでないとやめられなかったのかと思いますね。

 ―戦争のことを伝えるために何かされていますか。

 落語で戦争を扱うのは難しく、これまでは避けてきました。笑いの中でどこまで伝えられるのか。でも、戦争によって人生が変えられた人間として語り継がないといけない。そう思い、父の遺骨が見つかった旧陸軍墓地を舞台にして父のことを取り上げた「しあわせの進軍」という創作落語を昨年、作りました。

 戦争は起こしてはいけないと笑いの中で伝え、お客さんの胸の中で「そうやなあ」と感じてもらえればと思います。

 ―戦後75年を迎え、戦争を知らない世代がほとんどになりました。若い世代に伝えたいことはありますか。

 戦争に関する本や映画にたくさん触れてほしいです。いろいろな立場の人が巻き込まれたことを知り、なぜ戦争に突き進んでしまったのか考えてほしい。

 今は新型コロナウイルスの流行で皆、目の前のことで大変でしょう。ただ、新しい時代の中で、つらくて悲しい戦争があったことが風化してしまい、忘れられていくのを心配しています。

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桂文枝さん

 かつら・ぶんし 1943年生まれ。ラジオ、テレビ番組の司会などで人気を集める。創作した落語は300作に上る。