#あちこちのすずさん 疎開先の家を手伝う毎日 母が恋しかった

 恋にオシャレ、忘れられない食べ物…。アニメ映画「この世界の片隅に」(2016年製作)の 主人公・すずさんのような人たちを探して、#(ハッシュタグ)でつなげていくキャンペーン企画「#あちこちのすずさん」。あの当時を生き抜いた人たちの何げない日常を、読者から寄せられたエピソードをもとに集めてみました。

 学童疎開の経験を振り返ってくれた女性(87)のエピソードです。

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 私が住んでいた横須賀では、昭和19年8月から学童疎開が始まりました。

 疎開児童は、国民学校3年生以上6年生まで。私は6年生で、母の里である鎌倉・大船へ縁故疎開をしました。

 田舎の酒屋で、一日中忙しい家でした。学校から帰ると毎日夕方まで、赤ちゃんの子守です。

 赤ちゃんをおんぶして、汽車ポッポを見せに、東海道線の駅まで30分くらい歩いて行きました。汽車の汽笛を聞くと、優しい母のところへ帰りたいと、涙があふれてきたものです。

 卒業式では敵国の曲である「蛍の光」ではなく、題は知りませんが「年月めぐって早六年」で始まる歌を歌いました。私の疎開は国民学校卒業で終わり。横須賀に戻り、女学校1年生で終戦を迎えました。

 年の離れた姉は、横浜市の国民学校の教師として、足柄上郡のお寺に集団疎開をしました。児童216人を教師12人で世話しました。姉は55歳で他界しましたが、生前「子どもたちに満足に食べさせるものがなく、本当にふびんな生活を送った」と言っていました。

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