#あちこちのすずさん 軍需工場で汗を流した少年時代 女学生の姿も

 恋にオシャレ、忘れられない食べ物…。アニメ映画「この世界の片隅に」(2016年製作)の 主人公・すずさんのような人たちを探して、#(ハッシュタグ)でつなげていくキャンペーン企画「#あちこちのすずさん」。あの当時を生き抜いた人たちの何げない日常を、読者から寄せられたエピソードをもとに集めてみました。

 軍需工場で働いた少年時代の記憶を、91歳の男性が寄せてくれました。

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 私たち家族は東京に住んでいた。長男の私は昭和18年3月、国民学校高等科2年を卒業。満14歳で親元を離れ、現在の習志野市にあった軍需工場へ養成工として就職し、寄宿舎に入った。

 食事は工場内の食堂で3食取っていた。当初はまともなご飯だったが、次第にサツマイモや大豆が多くなり、昭和19年ごろには大豆の中に米粒が交じるご飯になった。そのため消化が悪く、胃が痛くなった。

 この頃になると、米軍のB29爆撃機が編隊を組んで、昼夜を問わず来襲した。空襲警報が鳴り、千葉の工場でもそのたびに防空壕へ避難した。

 工場には女学生の女子挺身隊員の方々も来て、作業をしていた。私の職場は小型旋盤作業で、その子たちに作業を教えていたが、きれいな子が多く、毎日が楽しかった。

 そして昭和20年3月10日未明に「東京大空襲」があった。現在の江東区、墨田区のいわゆる東京の下町の大部分が火の海となった。

 私は翌11日に現地に入ったが、道路に黒こげの死体が散乱し、大変な状況だった。ここで両親と弟妹5人、家族7人全員の死を知った。私は泣きながら千葉へ帰った。75年たった今でも、この悲しみは消えることはない。

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