「私が話してもいいのか」葛藤抱え語る決意 「原爆小頭症」の被爆者と家族の歩みを本にした俳優の斉藤とも子さん ♯8月のメッセージ

インタビューに答える俳優の斉藤とも子さん=7月4日、東京都港区

 母親の胎内で強力な放射線を浴びたことが原因で頭部が通常より小さく、知能や身体に先天的な障害があって生まれてくる「原爆小頭症」。2005年に当人やその家族、支援者の歩みをまとめた本を出した俳優の斉藤とも子さん(59)は今も定期的に広島に足を運びながら、各地の講演会などで原爆小頭症のことを知ってほしいと訴えている。「本当に私が話してもいいのかといつも悩みます」。葛藤を抱えながらも伝え続ける決意の根底にあるものとは。(共同通信=池田絵美)

 ―原爆や広島と関わることになったきっかけは。

 戦争と原爆の悲劇を描いた井上ひさしさん原作の舞台「父と暮せば」で1999年から3年間、被爆した娘役を演じたことが始まりです。当初は原爆の知識はほとんどなく、このままでは役に申し訳ないと1人で広島を訪ねました。

モスクワの劇場で上演された舞台「父と暮らせば」の斉藤とも子さん(左)と沖恂一郎さん=2001年6月(タス=共同)

 広島市内で偶然入ったお好み焼き屋のおかみさんが、原爆で孤児になった女性でした。背筋がしゃんとしてとっても明るい方で、ご本人も「こういう明るい被爆者もおるんよ」と笑顔で話してくださった。被爆者というとあまりの苦しみから、重く暗いイメージを持ってしまっていた私には驚きでした。  おかみさんの紹介で、別の被爆者の女性にも話を聞きました。「当時のことは忘れたくて誰にも話してこなかった」と言いながら語ってくださった体験談があまりに衝撃的で、込み上げるものをのみ込みながら、全身を耳にして聞きました。帰り際には私の姿が見えなくなるまでずっと手を振り続けてくれて、またこの方に会いたい、そう思って広島に通うようになりました。

 ―大学で原爆のことを勉強した。

 ちょうどそのころ、高齢者福祉を学ぼうと挑んだ大学受験に4回目で合格しました。当初は沖縄が抱える問題についても勉強したいと思っていましたが、被爆者と出会って方向性がぐんと原爆の方にシフトしてしまいました。卒業論文は被爆者の生活史を基に書きました。

 原爆小頭症の被爆者、そしてその家族、支援者が集う「きのこ会」の存在を知ったのは大学院に進んだ時で、中国新聞社で論説主幹などを務め、きのこ会の立ち上げに深く関わった故大牟田稔さんの遺稿集「ヒロシマから、ヒロシマへ」を読んで、衝撃を受けました。

斉藤とも子さん

 この世に生まれる前から放射線の脅威を受けた子どもたちがいる。同じ時代にこんな風に生きておられる方がいるということにさまざまな感情が湧き起こりました。一方でその子どもたちを支えた家族がいて、そしてその家族をさらに支えたジャーナリストや支援者の方々がいる。そのつながりに胸を打たれ、直接会ってお話を聞いてみたいと思いました。

 ―大変な取材だったのでは。

 きのこ会のみなさんはかつて取材を受けて世に出たことでさらに差別を受けたことがあったので、支援者の方々のガードが堅かったですね。でも、何とか気持ちが通じて、会の初代会長として小頭症の存在を社会に訴え続けた畠中国三さん(2008年に92歳で死去)にお会いすることができました。もうすでに体調を崩しかけていた時でしたが、一生懸命話してくださった。畠中さんは次女の百合子さんが小頭症で、百合子さんには重い障害がありました。

 「灯々無尽」。畠中さんにいただいた言葉です。「自分の話を聞いてそれがどこまで聞き手の心に残ったかは分からないけれど、もし少しでも心にとどめてくれる人がいたら、それを誰か一人にでも伝えてほしい。そうすれば百合子や自分たちのことがずっと生き続けて、核兵器廃絶につながっていくはずだ」とおっしゃっていました。このかすかな願いを持ちつつ、自分はやがて去っていくから託していくしかないとも。畠中さんのこれらの言葉は私の中にずっと残っています。

 ―修士論文では、きのこ会の歩みや家族の思いなどをまとめた。

 会の会報はジャーナリストが関わっていたこともあってすごく優れた読み物なのですが、ガリ版刷りで、その他のさまざまな記事や資料も散逸していました。だからせめて、これらの資料やみなさん一人一人の生きてきた記録、ご家族の思いを残しておきたいと思いました。

  原爆小頭症のお子さんを持つ親御さんというのは自分だって被爆していて体はぼろぼろなのに働き続け、子どもたちを懸命に育てました。

 政府に原爆小頭症を被爆者として認定してもらうために走り回って、世間の無理解や差別から子どもたちを必死で守って。「この子を置いては死ねない」「この子より一瞬一秒でも長く」。その一心で死ぬ間際までお子さんのそばにいたと思います。私はそんな親御さん方に敬意を表すためにも、これまでのことを残したかったんです。

 ―修士論文に手を加え本「きのこ雲の下から、明日へ」を出した。

 当時の担当教授が、これは世の中に出さないといけないと背中を押してくれました。それから今もずっときのこ会には関わり続けさせていただいています。  年に1回、広島で開かれる総会でみなさんに会うのが私の励みです。生きていたらつらいこともあるけど、きのこ会のみなさんには元気な自分で会いたい、そう思うと頑張れます。私の支えですし、お互いに支え合えたらいいなと思っています。

斉藤とも子さんが出版した、原爆小頭症患者と家族の歩みを描いた単行本「きのこ雲の下から、明日へ」

 ―今も原爆小頭症のことを伝え続けている。

 講演会などに呼んでいただいた時はお話しさせてもらっています。原爆小頭症のことを人前で話すのは本当に難しい。でも、二十歳まで生きられないとされた人たちが74歳となり、今も生きている事実。きのこ会のみなさんが経験してきた苦労や歴史についてはもちろんですが、私が一番伝えたいのは、核にも負けない人間の底力です。  親でも親戚でもない私が話していいのかといつも悩み葛藤しますが「このことを伝えてね」と語ってくださった親御さんのことを思うと、やっぱり伝えなくちゃと思います。

原爆小頭症の患者や家族が抱える福祉課題について報告する俳優の斉藤とも子さん(左)=2005年6月、広島市

 いろんな被爆者と知り合い、原爆は老若男女、貧富の差などに関係なく、無差別に落とされたものだと実感しました。どんな問題でも世の中の人が「自分にも起きたかもしれない」と思えたとき、解決への道が開けていくのではないでしょうか。

 そうやって自分の事として考えてもらえるように、もがきながらも私が今言える精いっぱいを伝えていく。受け継いだ火種を燃やし続ける。小さくても、それが私にできる一番大きな恩返しだと思っています。

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さいとう・ともこ 1961年、神戸市生まれ。78~79年放送のドラマ「ゆうひが丘の総理大臣」などに出演。社会福祉士や介護福祉士の資格も持つ。

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