昭和20年、私は長崎市立高等女学校の2年生だった。その頃は来る日も来る日も大橋町にある工場で旋盤を回していた。戦火がひどくなる前は、校庭でなぎなたの訓練もしていた。
8月9日、午前中に空襲警報が鳴った。それは1度解除されたけれど、私は家に帰ることにした。友達が「孝ちゃん、帰ると?」と話し掛けてきた。私は「うん、帰る。また明日ね」と答えた。けれど、その友達に明日は訪れなかった。
その頃は父が召集されて、母、弟2人と眼鏡橋の近くに住んでいた。原爆が落ちてすぐに防空壕(ごう)へ向かった。上の弟は中島川で遊んでいた。あわてて家を出た私は、なぜかげたの片方だけを持っていた。
その日からしばらく、防空壕の中で暮らした。忘れられないのは、遺体を焼く時の臭い、はだしで外を歩いてもガラス片が少しも痛くなかったこと。幸い家族全員無事だった。しばらくして学校が再開されたが、焼け出された市内3校の合同授業だった。
就職、結婚、そして3人の子を育てた。夫も被爆したため、子どもたちの健康が不安な日々もあった。幸い7人の孫に恵まれた。
(2016年に85歳で死去。次女本多和代=長崎市・主婦・58歳=が代筆)
『げたを持って』 古川孝子さん えぷろん平和特集2020 #あちこちのすずさん
- Published
- 2020/08/14 14:33 (JST)
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