「もう戦争こりごり」75年間 体験思い起こし手記に 井黒キヨミさん(94)

手記を前に、多くの負傷者でごった返した救護所の様子を語る井黒さん=長崎市

 古くなった“手記”がある。「戦争のむごさを感じた」「まさか負けるなんて」-。20代のころから、自らの戦争体験を思い起こし、誰に見せるわけでもなく当時の光景や思いを文章や絵にしてきた。自宅に残るのはA4サイズの紙など約10枚。処分してしまったものを含めると数十枚にはなる。「もう昨日のことも忘れてしまうけれど、75年前のことは今でも覚えている」。終戦から15日で75年。長崎市香焼町の井黒キヨミさん(94)は平和、命の重みをかみしめている。

 母親の浴衣で洋服を仕立てるなど、裁縫が得意だった。進学したかったが、家計を支えるため、尋常小学校卒業後は住み込みで働いた。勉強したくても、かなわない時代だった。
 そして開戦。大人も子どもも国家総動員体制に組み込まれ、井黒さんも竹やり訓練、焼夷(しょうい)弾に備えたバケツリレーの消火訓練などに駆り出された。「こんなことに何の意味があるのか」。疑問に思っても、口に出せる雰囲気ではなかった。
 食べ物にも事欠いた。トウモロコシの搾りかすやイモを少しの米に混ぜて炊き、空腹を紛らわせた。
 1945年8月9日。19歳だった。見習い看護師として働いていた桜馬場町(当時)の医院(爆心地から3.2キロ)で被爆。全身焼けただれた負傷者らが次々と押し寄せてきた。
 翌日から伊良林国民学校に設けられた救護所で救助に当たった。「男女の判別もつかないような黒焦げの人たちが、むしろに寝かされていた」「傷口にはウジがわき、手のほどこしようもなく次々に亡くなる」「校庭の片隅で死体を焼く煙は、辺り一面を覆っていた」-。救護所での惨状を手記にこう書き残している。
 そして15日。「天皇陛下の重大放送があるので聞くように」と言われ、ラジオの前に集まった。雑音で聞き取れなかったが、そばにいた医師が「戦争が終わった」と教えてくれた。張り詰めていた力が抜ける感覚だった。「降伏するなんて信じられなかった」。周囲も同じだった。疎開先の矢上に戻り、「戦争は終わったらしい」と話していると、出征中の息子がいる女性がすごいけんまくで「日本は負けません」とわめいた。混乱の中、多くの人が現実を受け止められなかった。
 「戦後」になったはずの日々も、苦しみは消えなかった。被爆した自身の体は不調が続き、脱毛を隠すため頭部に炭を塗って過ごした。被爆者ということで最初の結婚はうまくいかず、離婚も経験した。
 時代に翻弄(ほんろう)された人生だった。「もうこりごり。戦争は二度としてはいけない」。この思いは75年間、変わらない。戦争で多くの命が奪われた。そして、「その犠牲の上に今の平和がある」ことを、これからを生きる人たちに知ってほしい。若い世代には、平和のバトンを受け継いでいってほしいと願っている。

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