南洋の島の慰霊碑、民家の踏み石に 飛行場建設担った受刑者ら犠牲、歴史の風化懸念

マーシャル諸島ウォッジェ島で、民家入り口の踏み石になっていた慰霊碑=2016年4月(左、森山史子さん提供)と、日本の遺骨収集団によって、民家の近くの海岸沿いに再び建てられた慰霊碑=18年11月(右、鈴木千春さん提供)

 75年前の8月、太平洋に浮かぶ北マリアナ諸島のテニアン島を飛び立った米軍のB29爆撃機は、広島と長崎に原子爆弾を投下した。その飛行場を建設したのは、日本各地の刑務所から集められた受刑者たちだった。テニアン島のほか、マーシャル諸島のウォッジェ島など、日本の委任統治領だった地に派遣されて飛行場建設に従事。監督のために同行した刑務官も含め、多くの死者を出した。彼らのために日本からウォッジェ島に送られた慰霊碑は、時が巡り、民家の踏み石になっていた。(共同通信=今村未生)

 ▽細長く四角い石

 日本から約4200キロ離れた場所にあるウォッジェ島は、ヤシの木が生い茂り、青い海が広がる美しい南の島だ。4年前、踏み石となっていた慰霊碑を発見した森山史子さん(43)は「石の状態を見て、どうしても見過ごせなかった」と振り返る。

 森山さんは2011~13年、青年海外協力隊の一員として首都マジュロに滞在した。出身は長崎県佐世保市。米国が水爆実験を行ったマーシャル諸島への赴任は自ら希望した。「長崎県と歴史的背景の似ているマーシャル諸島の人たちの暮らしを見たい」と考えたことが理由の一つだ。

 慰霊碑を見つけたのは16年。任務を終えて帰国した後、マーシャル諸島での経験を生かし、戦死した父親を慰霊する日本人男性の旅に同行している途中だった。「何だろう」。立ち寄ったウォッジェ島の民家で、踏み石として横たわる細長くて四角い石に目を凝らした。「殉歿者之碑」などの文字が刻まれていたが一部は欠け、その時は何の石か分からなかった。

飛行場建設のため受刑者らが派遣された南太平洋の島々

 ▽赤誠隊

 日本に戻り、たまたまマーシャル諸島の歴史についての本を読んで驚いた。そこには、戦時中に法務省が全国から受刑者を横浜刑務所(横浜市)に集めて「赤誠隊(せきせいたい)」を結成し、ウォッジェ島やテニアン島に派遣したことが記されていた。「時が過ぎると調べられなくなる。見て見ぬふりをすれば、一生後悔するかもしれない」という思いが、体を突き動かした。

 森山さんは旧知の元駐マーシャル諸島大使に相談。知り合いの大橋哲・法務省矯正局総務課長(現・矯正局長)を紹介してもらった。森山さんが矯正協会発行の「戦時行刑実録」に慰霊碑のことが触れられていることを知って目を通すと、大きさは高さ約120センチ、横約24センチで、見つけた石とほぼ一致することも分かった。大橋局長は「赤誠隊のことは知っていたが、慰霊碑が島に残っているとは驚いた」と話す。

ウォッジェ島で撮影されたとみられる赤誠隊の作業風景=撮影年月日不明(横浜刑務所提供)

 法務省が日本軍の要請を受け、ウォッジェ島とテニアン島へ赤誠隊を送り込んだのは1939年以降。対象になった受刑者らは計2千人以上で、ほかにトラック諸島(現チューク諸島)へも「図南報国隊」として約2千人を派遣していた。

 横浜刑務所の資料によると、いずれも主に飛行場建設を担い、これらは受刑者が本土外で作業した唯一の例となった。食料不足や赤痢やデング熱などの病で、赤誠隊の刑務官10人と受刑者50人が犠牲になり、図南報国隊も刑務官30人、受刑者449人が死亡したとされる。

トラック諸島(現チューク諸島)で目にした受刑者らについて語る吉岡政光さん=20年2月

 ▽作業服に丸坊主

 東京都足立区に住む吉岡政光さん(102)は大戦末期の44年、海軍兵として約1カ月間、トラック諸島に配置され、飛行場建設に携わる受刑者の姿を目にした。受刑者に近づくことは禁じられ、当時20代後半だった吉岡さん自身が交流を持つことはなかったが「若い人が多くて明るく、にこにこしていた」と懐かしそうに話す。作業服に丸刈りで、一生懸命作業していたという。

 受刑者が布で作った数センチほどの帽子やわらじの細工も、印象に残っている。「非常に細かくて、よくできていた」といい、隊列を作って作業場に向かう際にこっそり、自分たちが持っていたビスケットやたばこなどと物々交換していたという。

 テニアン島の飛行場は後に米軍が占領し、米軍のB29爆撃機が飛び立って広島と長崎に原爆を投下した。森山さんは「受刑者も、自分たちが建設した飛行場が原爆投下のために使われると思っていなかっただろう」とおもんぱかる。

ノルウェー・オスロで取材に応じる森山史子さん=19年12月

 ▽慰霊碑はどこへ

 慰霊碑は2018年11月、ウォッジェ島を訪れた日本の遺骨収集団によって、民家の近くの海岸沿いに再び建てられた。メンバーの1人だった鈴木千春(すずき・ちはる)さん(55)は「島の人たちは石の意味を知らずに踏み石にしてしまったようだが、こちらの気持ちを理解し、移動に協力してくれた」と感謝する。19年2月に再訪問した際にもきちんと維持されたままだったという。

ただ、ウォッジェ島には日本人が住んでおらず、今の状況を確認するすべはない。森山さんは「慰霊碑には、あの時代を生きた人々の願いや歴史が詰まっている。日本での保存はできないか」と考える。だが国外へ運び出すことは禁じられている。

 森山さんは今、ノルウェーで暮らす。「私は何か行動に移すべきなのか。それとも、何もするべきではないのか」。葛藤を抱えながら「遠い南の島で帰らぬ人となった人々の歴史や、その島に生きる人々の今について知ることは、戦争を経験したことがない私たちにとって大切なことだ」と平和への思いを語る。

 日本の軍部が受刑者らに目を付けた背景には、1937年以降に埼玉県戸田市の戸田漕艇場や北海道美幌町の飛行場建設に受刑者が従事した実績があった。刑務官や受刑者の食糧は横浜刑務所から輸送していたが、滞ることもあった。赤痢などの病に加え、特にトラック諸島では、戦局悪化による食糧不足や空襲に苦しめられ犠牲者を増やした。

 太平洋地域への受刑者派遣に関わる慰霊碑は、日本にも残っている。横浜刑務所の敷地内には、監督のため現地へ渡って殉職した刑務官の慰霊碑が建立され、刻まれた「苛烈(かれつ)」「無縁孤立」などの言葉は当時の過酷さを物語る。刑務所から数キロ離れた2カ所の墓地には、受刑者を追悼する墓碑もひっそりとある。

横浜市の横浜刑務所にある刑務官の慰霊碑=20年2月

 横浜刑務所では65年から受刑者、73年からは刑務官の慰霊祭を毎年営んできた。それも刑務官の慰霊祭については近年、遺族の高齢化などから5年に1回となり、記憶の風化が懸念されている。

 ▽日本での保存

 森山さんがウォッジェ島で見つけた慰霊碑は今後、どうなっていくのか。マーシャル諸島では慰霊碑だけではなく、日本軍の戦争遺跡が至るところに見られるが、自由に移動できないことになっている。日本は51年のサンフランシスコ講和条約で、海外の遺留物についての請求権を放棄し、日本軍の戦争遺跡はマーシャル諸島政府に帰属することになったからだ。

 日本軍の上陸により移住せざるを得なくなった島民は帰還後、自分の土地に残されたものを利用して暮らすほかなく、倉庫や火薬庫だった建物などで生活を続けている人が今もいる。同時に、不発弾や朽ちた建物なども、危険なまま放置されている。

日本軍がウォッジェ島に残した大砲=16年4月(森山史子さん提供)

 マーシャル諸島は、文化的に重要な活動や文化交流などを行う非営利団体への寄付の目的でのみ、一時的に遺物を持ち出す許可が下りるとしている。「赤誠隊とウォッジェ島の歴史を絶やさないために、一時的であったとしても、この規定を適用できないか」。慰霊碑の日本での保存を望む森山さんはそう考えている。

※この記事は8月5日午前に公開後、遺骨収集団によって2018年に再び建てられた事実が判明したため、加筆し再公開したものです。

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