いまさら何が変わるのか 事件表面化から50年以上経過 支援者と出会い、心動く 生きて カネミ油症52年の証言 東海の被害者たち・上

名古屋市でのカネミ油症の検診会場で3人の支援者が声を掛けてきた(写真はイメージ)

 2018年10月。名古屋市に暮らすカネミ油症認定患者、浦寿久(61)=仮名=は、名古屋駅前の病院にいた。患者の健康状態を調べる年1回の油症検診。他の患者とは話すこともなく淡々と検査を受けるだけ。数カ月後には難しい用語や数値が記された検査結果の書類が自宅に届く流れだ。
 「お話だけでも、聞かせてください」
 待合室で3人組の男女に声を掛けられた。藤原寿和(73)=千葉県市川市=ら、約20年にわたり被害者の救済に取り組んできた支援者。本人や家族の症状や生活実態、悩みなど聞き取り調査をしているという。
 浦が古里の五島・玉之浦町で、原因の汚染食用油を食べたのは9歳の時。その後名古屋市に移り住み、皮膚や内臓などの多様な疾患に苦しんできた。だが医師に油症のことを相談し邪険に扱われてから、誰にも相談できなくなった。病気を隠して結婚し、職場にも明かしていない。いまさら誰かに話したところで、何が変わるのか-。そんな思いを抱きながらも浦は藤原に連絡先を教えた。
 藤原らはその後も名古屋に通い、浦と面会を重ねたが、その裏には東海での被害者団体設立という積年の思いがあった。全国には13の被害者団体があるが、東海はゼロ。愛知など東海4県には少なくとも70人近い認定患者が暮らしているのに、要望や意見を取りまとめる「受け皿」はなく、国や加害企業との交渉にも臨めない。被害者同士の交流すら、ほとんどない。藤原らは東海で新たな被害者団体を立ち上げるため、活動の主軸となる人物を探していた。
 団体設立と代表就任を打診された浦は当初、断った。「名古屋で声を上げる意味があるのか」。油症を伏せて生きてきて、今になって運動の先頭に立つ自信もなかった。
 それでも藤原らと何度も話す中で、国や加害企業が救済責任を十分果たしていないこと、特に東海の被害者には支援が届いていないことを理解した。被害者の子や孫ら次世代が健康被害に苦しんでいるのに油症と認められず、困っていることも分かった。
 「何とかしたい」。心は動き、新団体の共同代表に就く決意をする。油症事件が1968年に表面化して50年以上が経過していた。

 救済運動の空白地帯、東海地方に6月、「カネミ油症被害者東海連絡会」が設立された。共同代表や会員の油症患者としての孤独な半生から、被害の実態を伝える。

家族で発症 愛知へ移住 都会の孤独な日々始まる

 1968年、浦寿久(61)=仮名=は当時9歳で、7人きょうだいの末っ子。五島・玉之浦町で写真店を営む両親と3人で暮らしていた。就職や進学のため既に実家を離れていた兄や姉たちが、たまに帰省するのが楽しみだった。
 食品や日用品は近くのスーパーで購入。その中に、有害化学物質が混入したカネミ倉庫(北九州市)製の食用米ぬか油も含まれていた。そうとは知らない浦や両親は、すり身揚げや鶏のから揚げなど汚染油で調理した料理を食べ続けた。
 最初に「異変」が現れたのは40代の父。急に腹水がたまり、福江島の病院で切開手術を受けた。術後、体は弱る一方で仕事も満足にできなくなった。母も看病で忙しく、島外で働くきょうだいからの仕送りが生活を支えた。
 小学生の浦は子ども心に、地域で何か大きい事件が起きていることは感じ取った。子どもたちは校庭に並ばされ、保健体育の教員が児童の顔のにきびを見て「あなたはこっち、あなたはあっち」と振り分けていった。皮膚症状が出ていないか確認していたようだった。「町をひっくり返したように、大人が騒いでいた」
 油症事件が新聞報道で発覚したのは68年10月。普段から自宅で食事していた両親と浦は、間もなく油症患者と認定。だが五島へ帰省した際に限って汚染油を摂取した兄や姉は、30年以上認定されなかった。
 浦が体の不調を自覚したのは、小学校高学年の頃だ。体が極端に冷え、真夏でも海に入ると凍えた。冬は、ぜんそくの発作に苦しんだ。中学生になると、にきびのような吹き出物が顔や背中にびっしりとでき、つぶすと臭くて白いうみが流れ出た。虫歯になりやすく、歯はボロボロに。吹き出物や歯の症状は大人になっても続いた。
 事件発覚の4年余り後、油症に侵された両親は店を続けられないほど体調が悪化し、やむを得ず閉店。仕事を探し、兄や姉が働いていた名古屋市に家族で移り住んだ。浦は中学2年生になったばかり。「カネミ油症」という言葉すら知る人が少ない都会で、油症患者としての孤独な日々が始まった。
=敬称略=

52年前、五島の港町に出回った汚染食用油が住民に深刻な健康被害をもたらした(写真はイメージ)

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