理解者なく「我慢するしか」 油症を隠した生活 付きまとう健康被害 生きて カネミ油症52年の証言 東海の被害者たち・中

五島から名古屋市へ移住後、理解者に出会うことはなかった(写真はイメージ)

 西日本一帯で甚大な健康被害をもたらしたカネミ油症事件。発覚して5年がたった1973年、浦寿久(61)=仮名=は、職を探す両親と一緒に五島の玉之浦町から名古屋市へ移り住んだ。中学2年の春だった。
 重い病状の父は、負担が少ないビル管理人に。浦は高校を半年で中退し、料理人の道へ進んだ。中学生から続く吹き出物に加え、20代で顔面神経まひや手足のしびれ、原因不明の激しい腹痛などに悩みながら11年にわたり修業。27歳で自らの店を構え、結婚もした。
 油症を秘匿して生きる浦に健康被害が付きまとう。胃潰瘍を繰り返し、31歳で胃がんが見つかった。切除手術を終え退院した翌日、脳梗塞を発症し倒れ、一時的に半身不随となった。
 妻には脳梗塞を患った後、油症だと告白した。「実は小さい頃、毒が入った油を食べた。胃がんも油症と関係があるかもしれない」
 妻は分かってくれた。しかし浦はうそをついて結婚したことを含め自分を責め続けた。3人の息子が健康に育っていることだけが救いだった。
 生活に影を落としたのは病魔だけではなかった。国や加害企業カネミ倉庫などの責任を問う1970~80年代の集団訴訟。当時子どもだった浦も原告の一人に名を連ねていて、下級審の勝訴判決で国から損害賠償の仮払金を受け取った。しかし形勢が変わり、原告側は最終的に最高裁判決を前に訴訟を取り下げた。約10年後、大人になった浦に国から仮払金返還の督促状が届いた。「なぜいまさら」。仮払金は既に治療費などで全て使っていた。このため分割で返済していった。
 2000年代、全国的には被害者救済の動きが少し前進する。東京の支援団体「カネミ油症被害者支援センター」(YSC)が02年に発足し、仮払金返還免除特例法(07年)、被害者救済法(12年)の成立などに尽力。本県や福岡県などの被害者も連帯して再び声を上げ始めたが、東海には団体も被害者同士の接点もなかった。
 ある時、「この若さで大病が続くのは珍しい」といぶかる担当医に、浦は思い切って油症の影響ではないかと尋ねた。だが担当医は取り合わず「厄だね」と適当な反応。浦自身、油症の詳しい知識はなく、相談するのはそれきりになった。
 「誰かに話しても意味がない。我慢できることは我慢するしかない」。理解者に出会えないまま、40年以上を名古屋で過ごした。=敬称略=

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