『すべて忘れてしまうから』燃え殻著 ほのかな希望の物語

 ボルヴィックの国内販売出荷が終了する。中学生の頃、ミネラルウォーターのペットボトルを持ち歩くのがおしゃれな気がして、通学バックにしのばせていた。ほかにもカロリーメイトのフルーツ味とCDウォークマンも入っていた。帰り道にある公団の、誰もいない屋上で、裸足になって音楽を聴きながら水を飲み、東京湾に続く運河の殺伐とした景色を眺めていた。名実ともに中二の時間。自分だけの秘密の時間だった。秘密にしておいて本当によかった。

 さして大事にしていたわけでもない、断片的な記憶。それらがやたらと蘇る。理由はなんとなくわかっていた。この本を開いたからだ。

 燃え殻の新刊は、エッセーとも短編集ともつかない、彼のおぼろげな記憶の集合体。二代前のスマホに残したままの写真、高校一年のとき、後ろの席の「和製マイク・タイソン」と二人で行ったカラオケ館、永遠に続くのかというほど鬼ごっこの鬼をさせられた小学生のときのこと、北への旅を「駆け落ち」、南の旅を「バカンス」と呼んでいた、かつて好きだった人、実際には行っていない、家族と海水浴に行った鮮明な記憶。もう会えない人、なくなってしまった喫茶店、今となってはどうにもできない、苦い後悔。きれいな名前の付けられない感情が、どのフォルダにも入れられない、あぶれた思い出が、忘れてしまったと忘れられない間をゆらゆら漂う曖昧な記憶が、静かに描かれている。

 感傷的でありながらどこかユーモラスな文体には、そこはかとなく死の匂いが漂っているのも印象的だ。「何も持たずにすべてを置いて僕たちは必ず死ぬ」、「良いことも悪いことも、そのうち僕たちはすべて忘れてしまうから」。それは決して絶望的なニュアンスではなく、どっちかっていうと希望の言葉として綴られている。だから燃え殻はどの瞬間も生きて、どの感情も味わい、書き、残していくのだろう。「五分と続かな」いという集中力をフル稼働して。

 誤解を恐れずに言えば、それは決して特別なことじゃない。私たちにだってできることだ。だって頼んでもないのに呼び起こされてしまった曖昧な記憶の断片は、確かに私を構成する要素であり、痛くても苦くても、こんなに愛おしいんだから。だから書こう、私だけのあやふやな記憶を。まずは手始めに、ボルヴィックのペットボトルのことから。

 振り返ってもいい、悔やんでもいい、情けなくても弱くてもいい。死を想うことで生き、懐古することで前を見る。生きて書くことを選んだ、かっこ悪くて格好いい大人の、ほのかな希望の物語だ。

(扶桑社 1500円+税)=アリー・マントワネット

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