音楽が聴こえてきた街:歌舞伎町ディスコに響き渡るBOØWY「NO. NEW YORK」 1985年 8月22日 BOØWY のシングル「BAD FEELIN’」がリリースされた日(NO. NEW YORK 収録)

1985年の風営法改正、なんとディスコが昼からオープン!

80年代半ばに隆盛を極めた高校生主体のディスコ・カルチャーについて特筆すべきは、1985年の風営法改正に伴い、土曜日、日曜日に限りオープン時間が昼の12時から… になったことだ。この効果は絶大だった。遊んでも遊んでも遊び足りない当時の高校生たちにとって、ディスコの敷居はグッと低くなった。中には早熟な中学生の姿もあった。夜遊びではないので、親への口実はいくらでもできるという特典つきだ。

この時期、アーリー80’sで社会現象にまでなったホコ天のローラー族や竹の子族の存在は、影を潜めていたが、ホコ天にしろ、歌舞伎町のディスコにしろ、そこに踊りに来る子たちの表情はキラキラと輝いていた。30年以上経った今でも、当時少年少女だった人たちは、あの頃の喧騒を心の勲章にしているだろう。

そして、特筆すべきもうひとつは、ジャンルを特化しない選曲の幅の広さだった。当時ディスコでプレイされていたハイエナジー、ユーロビートはまだまだ市民権がなく、テレビ、ラジオで触れられることは一切なかった。これらを特集する音楽雑誌もなかった。ネットなき時代、音源を手に入れる唯一の方法は、ディスコに足繁く通い、曲名、アーティスト名をチェックする必要があった。そのような楽曲の国内盤は数多くリリースされていて、シングル盤でも名だたるディスコDJのライナー付きだった。

だから、この手の音楽に詳しくなるには、ディスコに通い、レコードを収集するしかなかった。そんなマイノリティな趣向と、相反するディスコの熱狂がなんともカッコよく思えたものだ。こんな話をすると、ディスコ初心者にとっては敷居高に思われるが、歌舞伎町のディスコの素晴らしさは、そこにサラリと、お茶の間でもおなじみのヒット曲を織り交ぜることだった。

歌舞伎町ディスコ最大のヒット、アン・ルイス「六本木心中」

前置きが長くなってしまったが、今回は80年代のディスコで大きな盛り上がりを見せた邦楽ナンバーを紹介していきたい。

80年代、歌舞伎町ディスコ最大のヒットと言えば、洋邦問わずアン・ルイスの「六本木心中」となるのだが(本物のユースカルチャーがここに。80年代「新宿・渋谷」のディスコシーン を参照)このディスコヒットはその後の潮流に大きな変化を促す。様々な邦楽ナンバーがフロアを揺らすことになるのだ。

忘れじのディスコビル、歌舞伎町は東亜会館のディスコ、BIBA、グリースなどでは、振り付けを一生懸命覚えた男のコたちがフロアを占拠した少年隊「仮面舞踏会」が盛り上がりを見せていたという。他にも、渋谷のサーファーディスコ、ラ・スカラでは、TUBE「シーズン・イン・ザ・サン」の12インチのロングバージョンがフロアに新たな風を吹き込んでいた。

さらに、テレビドラマの『男女7人シリーズ』の主題歌としても馴染み深い石井明美「CHA-CHA-CHA」や、同じく森川由香里「SHOW ME」、そして長山洋子の「ヴィーナス」などのカバーソングが大健闘した。もちろん、日本にユーロビートを浸透させた立役者、WINKの一連のヒット曲も80年代終わりのフロアを賑わせていた。

BOØWY「NO. NEW YORK」と、ニューヨーク・ニューヨークの熱狂

なかでも僕が印象深く思ったのは、BOØWYの「NO. NEW YORK」だ。彼らのファーストアルバム『MORAL』に収録され、結成当時からのキラーナンバーだったこの曲は、サードアルバムでのブレイクに伴い、「BAD FEELING」のカップリング曲として、装い新たに12インチとしてシングルカットされた。

そんな時期、この曲に目をつけたのは、歌舞伎町のディスコ、ニューヨーク・ニューヨークのDJだった。歌舞伎町のど真ん中にあったニューヨーク・ニューヨークは、東亜会館などの高校生主体のお祭り騒ぎのディスコとは一線を画した大人びた雰囲気があって、選曲のセンスはピカイチだった。ちなみに、バブルの象徴とされ六本木のディスコで大ヒットしたデッド・オア・アライブ「ユー・スピン・ミー・ラウンド」も、ブレイクの気配もなかった頃からここのDJが地道にターンテーブルに載せ続け、この場所での人気が六本木に飛び火している。

このように、眼識あるDJたちの目にとまり、一連のハイエナジーヒット曲やニュー・オーダーなんかと繋げてかかる「NO. NEW YORK」の盛り上がりは、他の邦楽ナンバーと一線を画していた。ニューヨーク・ニューヨークだけの色合いというか、ファッション系専門学校なんかに通う黒ずくめのお姉さまたちの熱狂が、当時高校生だった僕にはすごく眩しかったことを覚えている。そんな熱狂から、こんな噂が広まるほどだった。

「BOØWYの「NO. NEW YORK」ってニューヨーク・ニューヨークのことを歌っているんだぜ」

80年代音楽シーンの多様性、素晴らしき邦楽ダンスミュージック

今、俯瞰できたからこそ言えることだが、どれだけ多くの少年たちが楽器を手にし、バンドを始めたか… それは BOØWY の功績だろう。また、これとは別に洒落たディスコの空気をガラッと変え、熱狂の渦を作り出したのもまた彼らの持ち味であり功績だったとしみじみ思う。

高校生主体のディスコビル、東亜会館での「仮面舞踏会」、サーファーディスコで聴くTUBE、そして、DC全盛期に黒ずくめのお姉さまたちが熱狂した BOØWY… どれも80年代の音楽シーンの素晴らしさであり、多様性である。

アイドルであってもロックバンドであっても、ダンスミュージックという概念の中でこれだけバラエティ豊かな楽曲が残されたということは、やはり80年代は素晴らしかったなぁ… と言わざる得ない。時代がバブルへ向かうお祭り騒ぎの中で、これらの楽曲に身を任せて踊りまくった十代は奇跡のように楽しかった。そして、ダンサブルな邦楽ナンバーが今もあの頃の情景を脳裏に思い起こさせてくれる。

カタリベ: 本田隆

© Reminder LLC