「戦略物資」と化した新型コロナワクチン  錯綜する各国の利害

By 藤和彦

ロシアの研究所が開発した新型コロナウイルス感染症のワクチン=7月31日(タス=共同)

 プーチン大統領は8月11日、「ロシア保健省が開発した新型コロナウイルスワクチンを認可した」と発表した。ワクチン開発で最も進んでいるとされていたのはオックスフォード大学と英アストラゼネカのチームだったが、関係者の予想に反してロシアが「一番乗りを果たした」と宣言したのである。2カ月弱の臨床試験で認可されたことから、世界保健機関(WHO)など欧米の専門家は「ワクチン認可には安全性について厳格な審査が必要である」と否定的な見解を示す。だが、感染抑制と経済回復の両立に悩む新興国の関心は日に日に高まっている。(独立行政法人経済産業研究所上席研究員=藤和彦)

 ▽コロナとの長期戦に耐えられず

 フィリピン政府は今年10月にロシア製ワクチンの臨床試験を国内で開始する見通しだ。ベトナム政府はワクチンの購入をロシア側に申請した(8月14日付ロイター)。サウジアラビアやアラブ首長国連邦も、ロシア製ワクチンの臨床試験の実施で基本合意に達した(8月17日付ブルームバーグ)。

11日、ロシア・モスクワ郊外で、閣僚とのテレビ会議に参加するプーチン大統領(タス=共同)

 ロシア製ワクチンは、1957年に打ち上げた世界初の人工衛星「スプートニク」になぞらえ、「スプートニクV」という名前で11月にも海外への供給が始められる見通しで、既に20カ国以上から10億回分の投与の要請があったという(8月25日付日本経済新聞)。

 安全性に懸念があっても、ロシア製ワクチンに関心が高まっているのは、経済的な理由からである。WHOは「世界各国が新型コロナウイルス対策のために支出した費用は既に数兆ドルに上り、今後2年間の累積損失額は12兆ドル以上になる」との試算を明らかにしている。

 国際通貨基金(IMF)は「主要20カ国(G20)が財政浮揚に投入した金額は既に10兆ドル以上となり、リーマンショック後の対策に投じた金額の3倍半を超えた」と指摘する。今年の世界経済の成長率は戦後最悪になるのは確実な情勢であり、中でも新興国の経済は、新型コロナウイルスとの長期戦に耐えられなくなっている。

 感染抑制と経済回復を両立させる妙案がない新興国にとって、欧米より実用化が早く、安価とされるロシア製ワクチンの普及で早期に事態を打開したいと考えるのは当然なのかもしれない。

 ▽安全保障面でメリット

 ロシアと友好関係にある中国も国家主導のワクチン開発を積極的に進めている。国内では9つのワクチン候補の臨床試験が進行中であり、そのうち5つが最終段階にある。

 中国のカンシノ・バイオロジクスは17日、新型コロナワクチン候補の特許を中国当局から初めて取得したことを発表した。認可日はロシアと同じ日付(8月11日)である。世界でいち早くワクチンの量産体制を整え、感染拡大が続く新興国での需要を先取りすることは、安全保障面からのメリットもある。

 ロシア政府は24日、「ベラルーシがロシア製ワクチンが提供される最初の国となる」と発表した。ロシアが早期に承認した背景には、旧ソ連圏の国々の存在がある。自国の勢力圏を維持するための安全保障の一環というわけである。

5カ国とのオンライン首脳会議に臨む中国の李克強首相(中央)らを映す画面=24日(共同)

 中国も同様の動きを見せる。李克強首相は24日、北京で開かれた第3回メコン川協力指導者会議の場で「中国で新型コロナワクチンの投与が終われば、東南アジアの国々にまず第一に提供する」と発言した。中国はこのところ南シナ海の領有権を巡って東南アジアの国々と対立しているが、南シナ海問題への米国の介入を防ぐために、「ワクチン」という餌で緊密な関係を築きたいという魂胆だろう。

 ロシアや中国と同様、米国も国家主導でワクチン開発を進めている。その動きを牽引するモデルナやイノビオといったベンチャー企業は、米軍のバイオテロ対策のプログラムで育成されてきた(8月21日付日経ビジネスオンライン)。

 一方、日本の製薬会社は「ワクチン開発はリスクが大きく、儲からない」と敬遠しがちである。その中にあって大阪大学の森下竜一教授のチームは、6月末から臨床試験を始めている。来年春の実用化を目指すが、諸外国に比べ政府の支援が手薄であることは否めない。政府は海外で開発されたワクチンを確保することに全力をあげているが、自国でワクチンを開発する能力を有していないと、海外との交渉が不利になる恐れが高い。

トシリズマブ(商品名アクテムラ)(中外製薬提供)

 ▽不可欠なのは治療薬

 ワクチンが確保できたとしても、新型コロナウイルスとの闘いが終わるわけではない。これまでワクチンで根絶できたウイルスは天然痘のみであり、インフルエンザ・ワクチンの有効性は30~40%程度である。

 通常の経済活動に戻るには、ワクチンに加え、治療薬が不可欠なのである。

 新型コロナウイルスの場合、重症化すると治療期間が長期化するため、医療現場の負担が大きい。重症化の要因は、ウイルス自体の毒性ではなく、感染すると体内で炎症性のサイトカイン(免疫系細胞から分泌されるタンパク質)が過剰に放出される(サイトカインストーム)ことであることがわかってきている。

 筆者は以前から、サイトカインストームが生じる際に中心的な役割を果たすインターロイキン6の分泌を抑える関節リウマチ薬(アクテムラ)を推奨している。サイトカインストームが生じる際に中心的な役割を果たすのはインターロイキン6(サイトカインの一種)で、インターロイキン6の分泌を抑える薬は既に存在している。

 その薬の名はアクテムラである。アクテムラは関節リウマチ薬として2005年に日本国内で承認され、新型コロナウイルスの治療にも有効であることがわかってきている。アクテムラを開発した中外製薬の親会社であるスイス・ロシュの重症患者対象の臨床試験では有効性が確認できなかったが、米国ボストンメディカルセンターは8月4日、「感染初期にアクテムラを投与すると重症化を防ぐ効果が見られることから、既に承認されているレムデジビルやデキサメタゾンより効果的な治療が可能である」との研究結果を発表した。

 ワクチン確保を巡って諸外国の利害が錯綜する状況下で、「重症化を未然に防ぐ」という画期的な効果が期待されるアクテムラが、日本で1日も早く承認されることが何より重要ではないだろうか。

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