「村上春樹を読む」(107)深く、広く、重層的な世界 新短編集『一人称単数』について・その1

 正直、まとまって読むのは素敵だなと思いました。

 短編集『一人称単数』(2020年7月、文藝春秋)を読みました。小説の新刊は長編『騎士団長殺し』以来3年ぶり、短編集としては『女のいない男たち』以来6年ぶりです。この原稿を書いている8月下旬で、刷りも重ねて24万部のベストセラーとなっているようです。みなさんも読まれましたか。

 装丁に若い女性の姿が描かれて、その女性の奥に見える植え込みの中に、「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」と思われるLPレコードのジャケットが置かれています。そしてカバーを外してみると、LPレコードはありますが、若い女性の姿はありません。そんなところから「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」という作品を読んでみるのも、楽しみ方の1つとしてあるかと思います。

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 『一人称単数』の表題作は、書き下ろしですが、それ以外は文芸誌「文學界」の掲載時に読んでいましたし、収録された多くの作品を発表時に、この「村上春樹を読む」で取り上げてきました。でも一冊となった作品集を読んでみると、各回をその都度読んできた時とは、また別な作品像が私の前に現れてきたのです。

 中には、「エッ、もしかしたら、そういうこと…?!」という読みも、私にやってきました。まとめて短編集として読むことの楽しみを存分に味わうことができたのです。

 そして新しい姿をもって迫ってきた作品に、ある感銘を受け、もう一度読み返してしまいました。「感銘」なんていうと、ステレオタイプな評言のような感じもありますので、どんな感銘だったか、私の個人的な読みを具体的に記して、その理由を述べてみたいと思います。

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 この短編集『一人称単数』の各作品は主人公が「僕」あるいは「ぼく」「私」で語っていく小説です。中には「『ヤクルト・スワローズ詩集』」のように、「僕」がその「詩集」の著者として「村上春樹、村上春樹、村上春樹……」とサインをする場面もあるので、「僕」「ぼく」「私」=「村上春樹」という感覚で読んだ人も多いかと思います。

 著者本人がそう書いているわけですから、どこかが村上春樹自身と重なるように読んでも仕方ないと思います。でも、どこまでが村上春樹と同じなのか、どこから村上春樹の実人生とは異なるか、そのあたりが読んでいてもわからないように書いてある短編集かと思います。

 例えば「品川猿の告白」では、一人旅をしていた「僕」が群馬県のM*温泉の小さな旅館で、年老いた猿と出会い、猿の告白を聴く話です。

 宿の温泉に「僕」が一人入っていると、「猿」がガラス戸をがらがらと開けて風呂場に入ってきます。その猿が「お湯の具合はいかがでしょうか?」と話しかけてきて、「とても良いよ。ありがとう」と「僕」が答えると、「背中をお流ししましょうか?」と「猿」が言い、また「ありがとう」と「僕」は応じていく話です。

 こういうことは「村上春樹作品」の中ではありうることですが、これを「僕」=実際にこの世を生きている「村上春樹自身」とぴったり重ねて読むということは、難しいでしょう。

 このように「村上春樹」と自分の詩集にサインする「僕」も含めて、「村上春樹作品」の中の「僕」「ぼく」「私」とは重なっていますが、私小説作家のように「作家」の実人生=『一人称単数』と読むことが、できないような短編集となっているのです。

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 この短編集『一人称単数』には、好きな作品がたくさんありますが、今回の「村上春樹を読む」では、冒頭の「石のまくらに」の中で書かれる短歌と「『ヤクルト・スワローズ詩集』」の中で書かれる詩について、考えてみたいと思います。

 まず「『ヤクルト・スワローズ詩集』」の方から、紹介しましょう。村上春樹がヤクルト・スワローズのファンであることは有名ですが、この作品の中の「村上春樹」はヤクルト・スワローズの試合を1人外野席で見ながら、暇つぶしに詩のようなものをノートに書き留めていたそうです。それが昂じて、1982年、長編『羊をめぐる冒険』を刊行する直前に半ば自費出版の形で、500部ほどの『ヤクルト・スワローズ詩集』という詩集を出したという話です。

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 その詩が作中、幾つか引用されながら、作品が描かれています。

 村上春樹ファンからの「えっ、ヤクルト・スワローズへの詩も書いちゃうの!」という感嘆の声も聞こえてきそうな作品ですが、その詩集が実在したものなのか、創作なのかは、脇に置いても、この詩集はたいへん奇妙な詩集です。

 例えば、タイトルが『ヤクルト・スワローズ詩集』なのに、たいへん印象的に描かれている野球選手が阪神タイガースの「マイク・ラインバック」という外野手だったりします。「外野手のお尻」という詩では「阪神のラインバックのお尻は/均整が取れていて、自然な好感が持てる」と記されています。

 その「外野手のお尻」という詩が引用される前には「僕は彼がいわば脇役として登場する詩をひとつ書いた。ラインバックは僕と同い年で、一九八九年にアメリカで交通事故で亡くなった。一九八九年には、僕はローマで生活し、長編小説を書いていた。だからラインバックが三十九歳の若さで死んだことも長いあいだ知らなかった。当たり前のことだけれど、イタリアの新聞では、阪神タイガースの元外野手の死は報じられない」とラインバックのことが長々と紹介されています。

 ですから、どうしてもラインバックが「脇役」としては、この詩が読めないのです。

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 さらに、次に引用される「海流の中の島」という詩は、甲子園球場のヤクルト・スワローズの応援席で、阪神=ヤクルト戦を観戦したという詩です。

 甲子園球場でのヤクルトの応援席は「だいたい五メートル四方ほどの/大きさしかなかったから。/そのまわりはそっくり全部/タイガース・ファン」で「海流の中の小さな島みたいに/真ん中に勇敢な旗を一本立てて。」ということから「海流の中の島」という詩のタイトルが付けられています。

 このように甲子園球場と阪神タイガースのことが何度も描かれるのは、村上春樹の父親が熱心な阪神タイガース・ファンであったことと関係があると思います。

 「僕の父親は筋金入りの阪神タイガース・ファンだった。僕が子供の頃、阪神タイガースが負けると、父親はいつもひどく不機嫌になった。顔つきまで変わった。酒が入ると、その傾向は更にひどくなった」と記されています。父親ばかりでなく、まわり中、阪神ファンの土地なので、村上春樹も「阪神タイガース友の会」に入っていたそうです。

 村上春樹が9歳の時には、父親と2人で甲子園球場に行って、セントルイス・カージナルズが来日した際の試合を見に行ったことも書かれています。

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 そんなことが、記されている短編なのですが、果たして、そういう村上春樹のヤクルト・スワローズへの愛と、父親の阪神タイガース・ファンぶりが書かれているのか……というと、一冊の本となった『一人称単数』で、この作品を読み返してみると、どうも少し異なることが記されているのではないかと思えてきたのです。

 この短編の中には、村上春樹の母親のことも書かれていて、「母親の記憶が次第にあやふやになり、一人暮らしが覚束なくなってきたとき、僕は彼女の住まいを整理するために関西に帰った」そうです。

 家の物入れは「わけのわからない何やかやが、常識では推し量れないほど大量に買い込まれていた」ようで、「大きな菓子箱の中にはぎっしりとカードが詰まって」いて、「ほとんどがテレフォンカードで、中には阪神・阪急電車のプリペイド・カードも混じって」おり、どのカードにも阪神タイガースの選手の写真がついていたそうです。

 でも、母親は自分が阪神タイガースの選手のテレフォン・カードを大量に購入したことを真っ向から否定。「そんなもの私が買うわけないやないの」と言い、「お父さんに聞いてくれたらわかると思うけど」と言います。

 「僕」は「そう言われても困る。父親はもう三年前に死んでいるのだから」と書いています。

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 村上春樹はエルサレム賞の受賞挨拶「壁と卵」(2009年2月)の中で「私の父は昨年の夏に九十歳で亡くなりました」と述べています。その「3年後」の母親とのやり取りなので、これは東日本大震災があった2011年のことです。

 「常識では推し量れないほど大量に買い込まれていた」ものには、東日本大震災で顕わになった戦後日本の姿が込められてもいるのかもしれません。

 阪神の外野手ラインバックが生まれた年、1949年は村上春樹の生年、私も同じ年ですが、ラインバックが亡くなった1989年はベルリンの壁が崩壊し、天安門事件が起き、日本で昭和天皇が亡くなった年でもあります。

 ベルリンの壁崩壊後の世界の混乱を見れば、ベルリンの壁の崩壊と天安門事件は、その後の世界、今の世界と繋がっている大事件です。昭和の時代には、日本は中国やアジア、アメリカとの戦争など、第2次世界大戦に突入し、多くの人びとが亡くなりました。そして敗戦と、さらにその後の戦後復興や高度経済成長路線という激動の昭和時代が終わった年が1989年でした。

 おそらく、そのことが意識されて、ラインバックについての詳しいコメントがついた「外野手のお尻」という詩になっているのではないかと思います。

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 そんな視点から読んでみると、「海流の中の島」という詩は「日本」のことを述べているのではないかと感じられてきたのです。

 「海流の中の島」という言葉は、この詩の最後に少しだけ変形して「海流の中の小さな孤独な島で/僕の胸は静かにうずく。」と繰り返して記されています。

 ここに、村上春樹の今の世界や日本への危機感のようなものが、静かに記されているような気がするのです。

 「海流の中の島」という詩を生んだ甲子園球場での阪神=ヤクルト戦ですが、そのときは野村克也監督時代で「古田や池山や宮本や稲葉が元気いっぱい活躍していた時代だ(考えてみれば幸福な時代だった)。だからもちろんこの詩はオリジナルの『ヤクルト・スワローズ詩集』には収録されていない。その詩集が出版されたあと、ずいぶん経ってから書かれたものだ」とあります。

 古田、池山、宮本、稲葉は記されていますが、1994年年末にFA宣言して、読売ジャイアンツに移籍した「広沢」の名前が挙げられていないので、「海流の中の島」は阪神大震災があった1995年以降の甲子園球場での阪神=ヤクルト戦ではないのかなと、想像しています。

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 私が、この「海流の中の島」という詩と阪神大震災を関係づけて考えてしまうのは、この詩の中に、ヤクルトの応援席のまわりは全部、阪神タイガースのファンで埋められていることについて、次のように記されているからです。

 「ジョン・フォード監督の映画/『アパッチ砦』を思い出す。/頑迷なヘンリー・フォンダの率いる/小規模の騎兵隊が、大地を埋め尽くす/インディアンの大軍に包囲されている。/絶体絶命というか、」

 このようにあって、そして「海流の中の小さな島みたいに/真ん中に勇敢な旗を一本立てて。」と続いていくという連があるからです。

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 ジョン・フォード監督の映画『アパッチ砦』のことが出てくる村上春樹の小説に「文學界」1995年11月号に掲載された「めくらやなぎと、眠る女」(『レキシントンの幽霊』)があります。これは「めくらやなぎと眠る女」(「文學界」1983年12月号=『螢・納屋を焼く・その他の短編』)という短編のショート・バージョンです。

 長い版の「めくらやなぎと眠る女」を4割ほど削減した版で、作品の長短を便宜的に区別するためにタイトルに読点「、」が短い版に加えられています。

 村上春樹は、阪神大震災があった年の夏、当時はめったに日本では行わなかった朗読会を神戸と芦屋で催しました。阪神大震災に見舞われた土地、自分が育った土地で、この作品をどうしても朗読したいと思ったが、朗読には少し長すぎるので、約80枚の作品を45枚に短くしたのです。どうしても朗読したいと思ったのは、作品の舞台が阪神大震災に襲われたところだったからのようです。

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 その結果、長い版とは「少し違った流れと意味あいを持つ作品になつたので、違う版として、あるいは違ったかたちの作品」として収録したことが『レキシントンの幽霊』(1996年)の中の<めくらやなぎのためのイントロダクション>に記されています。

 長い版と短い版の違いを紹介すると、少し長くなるので省きますが、その短い版、つまり阪神大震災があった1995年の夏に神戸・芦屋で朗読した「めくらやなぎと、眠る女」に、ジョン・フォード監督の映画『アパッチ砦』のことが出てくるのです。

 その『アパッチ砦』のことが出てくる場面で「誰の目にも見えることは、それほど重要なことじゃないっていう意味なのかな……」という「僕」の言葉が記されています。この言葉も印象的な作品です。

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 その『アパッチ砦』のことが出てくる詩の最後が「海流の中の小さな孤独な島で/僕の胸は静かにうずく。」と結ばれているのです。

 これは、やはり「日本」という国のこと、「阪神大震災」についてのことを語っているのではないでしょうか……。さらに妄想をたくましくすると、「阪神タイガース」の頻出ぶりには「阪神大震災」のことも、その言葉の陰に反映しながら語られているのではないかと思えるのです。

 このように『一人称単数』には「僕」や「ぼく」「私」で語られる村上春樹に近い人物が語る短編が並んでいますが、でもそこには直接は描かれないが、大きな時代の事件や、その後、今ある世界の姿を反映した作品集だと感じられたのです。

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 さて、以上のような「『ヤクルト・スワローズ詩集』」に対する読みが私に訪れたのは、村上春樹が自分の父親の中国戦線への従軍体験などを書いた『猫を棄てる 父親について語るとき』(2020年)を何度か読み返したことからやってきたものでした。

 『猫を棄てる 父親について語るとき』でも、父親の阪神タイガース好きは記されていますが、「『ヤクルト・スワローズ詩集』」では、父親の従軍体験は記されていません。

 それなら、父親の従軍体験は『一人称単数』には、記されていないのか……と思っているうちに、そうではないことに気がついたのです。父親の従軍体験は『一人称単数』の巻頭に置かれた「石のまくらに」の歌の中に書かれているように迫ってきたのです。

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 「石のまくらに」は、「僕」が大学2年生で、まだ20歳にもなっていない頃、同じ職場で、同じ時期にアルバイトをしていた20代半ばくらいの女性に関する思い出です。僕は、その女性とふとした成り行きで一夜を共にすることになったのです。その女性は短歌を作っていて、1週間後に『石のまくらに』というタイトルの「歌集」を送ってきます。

 それは「印刷した紙を凧糸(たこいと)みたいなもので綴じて、簡単な表紙をつけただけのとてもシンプルな冊子で、自費出版とさえ言いがたい」歌集です。「最初のページには28という番号が、ナンバリングのスタンプで捺(お)して」ありました。

 「『ヤクルト・スワローズ詩集』」によると、村上春樹が出版したという『ヤクルト・スワローズ詩集』も「半ば自費出版」の「簡素な造本、ナンバー入りの五百部」とありますので、『石のまくらに』と『ヤクルト・スワローズ詩集』は対応性を持って『一人称単数』の中にある歌集と詩集だと思います。

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 短編「石のまくらに」も「『ヤクルト・スワローズ詩集』」と同じように歌集『石のまくらに』を紹介しながら、作品が進んでいくのですが、それにはこんな歌があります。

「石のまくら/に耳をあてて/聞こえるは/流される血の/音のなさ、なさ」

「やまかぜに/首刎(は)ねられて/ことばなく/あじさいの根もとに/六月の水」

「午後をとおし/この降りしきる/雨にまぎれ/名もなき斧が/たそがれを斬首」

「たち切るも/たち切られるも/石のまくら/うなじつければ/ほら、塵となる」

 この短編「石のまくらに」が発表された時点(「文學界」2018年7月号)では、まだ『猫を棄てる 父親について語るとき』の元となった「猫を棄てる――父親について語るときに僕の語ること」(月刊「文藝春秋」2019年6月号)は発表されていませんでした。

 「石のまくらに」を含めた3作が同時に発表された時、たんへん評判となり、評価も高くありました。私もとても興味深く読み、発売と同じ月に、この「村上春樹を読む」で取り上げて、紹介しております。

 でも、その後もずっと「石のまくらに」を『猫を棄てる 父親について語るとき』と関連づけて読んでいませんでした。

 でも今回、一冊になった『一人称単数』を読み、その間に『猫を棄てる 父親について語るとき』も読み返す機会があり、エッと驚きました。

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 紹介した歌は、いずれも首を斬られて死ぬ、死者のイメージに満ちています。首を斬られた者はもちろん、首を斬った者も、既に死んでいるようです。

 村上春樹が父親のことを書いた『猫を棄てる 父親について語るとき』で、最も核心となる部分は父親の中国戦線従軍体験ですし、父親が所属していた部隊が、捕虜にした中国兵を斬首したことを父親が村上春樹に語る場面です。

 中国の問題は『風の歌を聴け』の登場人物が集まる「ジェイズ・バー」のバーテンのジェイが中国人であるように、村上春樹にとってデビュー以来の中心的な問題ですが、その「自分が父親から引き継いだ歴史」を『猫を棄てる 父親について語るとき』でしっかり書いたことが、作家として、たいへん立派なことだと私は思っています。

 でも、今回、『一人称単数』を読んで、小説の中でもしっかり書いているのを知って、刮目して、さらにもう一度読んだのです。

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 このように『一人称単数』という短編集は、実に深く、広い世界を描いているのですが、言葉を削れるだけ削って書いたような作品群となっています。その削ぎ落とした文章ゆえに、幾つもの読みが可能な短編集だとも言えます。「石のまくらに」に対して、今回書いた父親の中国体験と響き合うという読みではなく、また別な読みも、私の中にやってきました。機会があったら、その別な読みもこの「村上春樹を読む」で紹介してみたいと思います。

 村上春樹の父親が短詩型文学の俳句が好きで、句集も出していることなどから、「石のまくらに」の中で紹介される短詩型の短歌と歌集が作品の中で深く響いたきたこともあります。

 『猫を棄てる 父親について語るとき』には「ちなみに村上千秋(ちあき)というのが父の名前だ」とありますが、歌集『石のまくらに』の歌人は「ちほ」という名前であることも、私の中の響きを増しています。

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 他にも、私の中で、エッと思うような読みの転換が訪れた作品が、いくつもあります。そのくらい深く、広く、重層的な世界を描いた作品集です。

 それらの幾つかについて、これからの「村上春樹を読む」で、紹介していきたいと思います。(共同通信編集委員 小山鉄郎)

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