『サキの忘れ物』津村記久子著 ちょっとイジワルな短編集

 なんとも、不思議な短編集である。9本の短編からなる1冊である。たとえばさっきの脇役がここでは主人公だとか、ひとりの主人公の人生が飛び飛びに描かれるとか、そういった仕掛けの短編集ではない。それぞれの短編で、まったく別の登場人物が、まったく別の物語を織り上げるわけなのだが、なんというか、どれも独特の読後感を残すのだ。

 表題作は、病院に併設する喫茶店で働く少女の物語だ。勉強や友人関係に苦手意識があり、高校を去ろうとしていた彼女は、ある常連客が置き忘れていった文庫本になぜか惹かれる。読書慣れしていない彼女の、書籍との初めての格闘。そんな彼女の10年後の姿が、この物語の肝である。ああ、そんなふうに育ってくれたのね。深い感慨が読み手を包む。

 『喫茶店の周波数』は、お気に入りの喫茶店で、隣や背後の席の客たちの会話を味わうのが大好きな男性の物語だ。その店の閉店を知って駆けつけた彼は、これが最後の来店なのに、なんとも感じの悪いお客の隣席に当たってしまって、メゲる。

 息を呑んだのは『行列』である。無料で観られるのはとんでもなく幸福なことであるらしい「あれ」を観るべく、所要時間12時間の行列に並ぶ人々の物語。「あれ」を見せる側の人たちは、並ぶ人たちを退屈させないように、そして何らかのお金を落としていってもらえるように、様々な工夫を行列に凝らす。並ぶ人たちは並ぶ人たちで、時間が経つごとにその本性をあらわにしていく。最初はちらちらと、やがておおっぴらに。その塩梅が実にリアルで、どこかいたたまれない気持ちになる。

 そう、収められた短編たちはどれも、人間の本性をチクリと突くのだ。ある時は大人の眼差しで、ある時は幼子の眼差しで。次から次へと描かれる、タテマエの奥に隠したホンネたち。その様は、さりげなくも、鮮やかだ。

 『真夜中をさまようゲームブック』は、深夜に帰宅して、自宅の鍵を紛失した主人公の物語だ。パラグラフごとに番号が振られ、それぞれの文末にはいくつかの選択肢が記されていて、その選択肢が示す番号順に読み進めていくことで、読者によってまったく違う展開を見せる仕掛けである。私の場合はうっかり、たったの3パラグラフで物語が終わってしまった。悔しいので、最初からやり直す。すると次第に、物語が長く続くための選択方法がうっすらわかってくる。そこからが、この物語の真髄である。

 この1冊。人間味と、遊び心と、ほんのちょっとのイジワルでできている。

(新潮社 1400円+税)=小川志津子

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