関東大震災で犠牲になった沖縄の女性たち 災厄は弱者にしわ寄せ

By 江刺昭子

富士瓦斯紡績川崎工場(1920年頃)

 川崎市のJR川崎駅東口広場に背丈ほどの直方体の石碑がある。沖縄で道の曲がり角などに、ずっと小ぶりなのを見かける魔除けの石敢當(いしがんとう)である。その前で8月28日、川崎沖縄県人会主催の「石敢當建立50周年 記念のつどい」があった。(女性史研究者・江刺昭子)

 設置の由来は1959年9月、米国統治下にあった沖縄を襲った宮古島台風(別名サラ)にさかのぼる。茅葺き・木造が多かった宮古島の家屋は7割が倒壊、農作物の被害も甚大だった。島民の窮状を知った川崎市議会が中心になって救援会が結成され、市民から集めた義援金355万円(当時のレートで約1万ドル)を琉球政府に贈った。その返礼にと宮古島から贈られたのがこの石敢當で、駅前に設置されたのが70年9月1日だという。

 設置50周年にあたり、その絆を語り継ごうと、市長や市議会議長をはじめ、ゆかりの人びとが出席。約100年前から始まった川崎と沖縄の交流をこもごも語ったが、わたしの期待は外れた。関東大震災の日、9月1日が目前なのに、沖縄から出稼ぎに来た人たちが川崎でおおぜい犠牲になった話は全く出なかったのだ。

 川崎南部では明治の末頃から明治精糖、東京電気(現・東芝)、日本鋼管、鈴木商店(味の素)、浅野セメントなど近代的な工場が操業を開始。なかでも最大規模を誇ったのが富士瓦斯紡績(富士紡)川崎工場だった。14万坪の敷地に工場のほか病院や寄宿舎もそなえ、1921年には5千人が働いている。主力は他府県からの出稼ぎの女工であり、沖縄出身者が多い。募集人に連れられての集団就職だった。

 沖縄から本土への出稼ぎが始まったのは19世紀末だが、本格的になったのは1920年頃から。『沖縄県史』によると、25年における県外出稼ぎ者は2万人近くいて、男性より女性のほうが多い。女性1万829人のうち、大阪3824人に次いで多いのが神奈川の1832人。そのほとんどが富士紡川崎工場だったとみられる。

 川崎の女性史『多摩の流れにときを紡ぐ』(1990年刊)を編纂した折、沖縄出身の元女工さん4人から話を聞いた。そのうち桃原ウタさんはこう話した。

 「今の中学生の年齢ですからね、毎日泣いていましたよ。夜勤が辛かったね。晩の6時から朝の6時まで、昼夜交替制でね、機械は止めないで、人間だけ交替するの。それで居眠りして機械に頭をぶつけると、お姉さん(見回り工)が怒りよった」

 昼夜交代制の12時間勤務。当時、深夜労働の禁止は実現していない。

 機械に髪を巻き込まれた人もいた。撚った糸を管に巻くリングの職場では、機械が回り続けているので、トイレにも急いで行く。「台の悪いのにあたったりすると大変よ。ご飯も食べに行かないで、綿がからまっているのをきれいにするの」

 前借金を負って寄宿舎に入れられ、返すまでは休日の外出も許されなかった。

 そして1923年9月1日、マグニチュード7・9の大地震が関東地方を襲う。東京や横浜に比べて川崎の被害は軽かったが、南部の工場街はひどかった。富士紡は寄宿舎7棟を含む建物19棟が全壊した。死者154人(女134人・男20人)、重軽傷者35人(女34人・男1人)に及んだ。地震発生が白昼(午前11時58分)だったのにほとんどが圧死だったのは、きつい夜勤明けの睡眠中だったからだ。

 同年10月に富士紡が川崎町に提出した死傷者名簿によると、亡くなった女工は13歳から16歳が多く、最年少は12歳。生年月日と入社年月日から計算すると、10歳、11歳で入社した人が計14人いる。小学校を出るか出ないかで働きにきて、1、2年で犠牲になっており、いたましい。

「富士瓦斯紡績川崎工場男女工震災死亡者人名表」原本

 通勤9人を含む死者は全て他府県出身者で、沖縄県がだんぜん多く48人(女46人・男2人)、次いで秋田16人(女14人・男2人)、新潟14人(女13人・男1人)、青森13人(女11人・男2人)と続く。それだけの犠牲があっても、工場が再建されると沖縄からの出稼ぎはさらに増えている。

 25年には大きな労働争議が起きる。労働組合の全国組織、総同盟が指導したストライキは長期に及び、県知事の調停で終結した。

 このとき争議団が出した要求書には「寄宿女工の近親者が病気危篤のときは帰郷を許可してほしい」「近親者と面会させてほしい」「休日には外出を自由にしてほしい」といったあたりまえの要求が並んでおり、待遇のひどさがわかる。

 この紛争は「籠の鳥争議」と呼ばれた。「籠の鳥」は当時の流行歌で、それをもとにした映画も人気になった。自由を奪われた状態やそのような状態にある人の暗喩である。

 「記念のつどい」で市長や市議会議長は、沖縄の人の働きが今日の川崎の繁栄の礎になっていると、友好の歴史を強調したが、女工の場合は貧しさゆえに家の犠牲になり、身売りのようにして出稼ぎに出された。そして工場でも虐待に等しい労働搾取に遭った。その上に築かれた「友好」であることも、語ってほしかった。

 寄宿舎では昼夜勤の者が交代で同じ蒲団に寝た。昼食は麦飯、たくあんに味噌汁だけだった。人の声も聞えないほどの機械の音と、眉の上に綿ぼこりがたまるほどのひどい塵埃の中で働いた。だから、結核などの感染症が蔓延した。

 病を養うために帰郷して亡くなる人が相次ぎ、沖縄は全国有数の結核県になった。いま、都市由来のコロナ禍で苦しむ沖縄の姿と重なる。

 コロナ禍により女性の雇用環境が厳しさを増している。5月の労働力調査によると、非正規労働者は前年同月比で61万人減り、その7割を女性が占めた。女性の働き手が多い飲食業や宿泊業が深刻な打撃を受け、離職者が増えているからだという。

 災厄のとき、不景気のとき、そのしわ寄せは最初に弱者に及び、解消するのは弱者が最後となる。沖縄の人たちに、職場や家庭で働く女性たちに、かつてと同じような辛酸をなめさせてはならない。

© 一般社団法人共同通信社