黒い雨の真実、40年を振り返る 控訴した国の懸念と終わらない闘い

広島への原爆投下後の画像

 戦後75年目の夏、広島への原爆投下を巡る司法判断に関心が注がれた。7月29日、広島県内に住む男女84人(死亡者含む)に関し、広島地裁が原爆の「黒い雨」を国の認定雨域外で浴びたと認め、県と広島市に被爆者健康手帳の交付を命令した。控訴を望まない県、市と、援護拡大を避けたい国との攻防の末、8月12日に控訴に至った。「まだこんな裁判が続いていること自体が驚きだ」。国側全面敗訴の一報を聞いた菅義偉官房長官が周囲に漏らした言葉は、報道に触れた人の多くが抱いた印象と重なるだろう。

 訴訟が起こされたのは2015年。しかし黒い雨を巡る論争は40年以上繰り返されてきた。なぜ今も、原告らは闘わなければならないのか。これまでの経緯を振り返りたい。(共同通信=野口英里子)

「黒い雨」訴訟の国側控訴を受けて記者会見する高野正明原告団長(中央)=8月12日午後、広島市

 ▽不信

 「命には限りがある」。控訴を受けて開かれた原告団の記者会見で、団長の高野正明さん(82)は憤りを隠さなかった。原告は現在70~90代。もともとの原告数は88人だったが、判決までに16人が亡くなった。

 援護拡大を望みながら法的な問題で被告の立場に置かれた県と市は、原告らの切迫した状況を前に控訴断念を国に申し入れた。だが国は「科学」を理由に控訴の方針を譲らなかった。

 同時に「援護の拡大も視野に入れた再検証を行う」とも表明した。が、原告や弁護士らは「信用できない」と口をそろえる。そこには、国の言う「科学」に40年以上の年月を振り回されてきた歴史があるからだ。

 ▽火種

 黒い雨は、原爆投下の数十分後から数時間かけて降ったとされる放射性物質を含む雨。一部は火災により発生したすすも混じっていたため黒い色をしていた。原爆がさく裂した瞬間に放出された放射線が弱かったり届かなかったりした地域でも下痢や脱毛などの健康被害が確認され、黒い雨の影響が指摘されてきた。

 被爆者援護法の前身、原爆医療法(1957年施行)は、爆心地である当時の広島市と隣接する町村を医療給付の対象となる「被爆地域」とし、原爆投下時から2週間の間に域内にいた人などに被爆者健康手帳を交付すると定めた。

 さらに76年、黒い雨の降雨域を示した当時唯一と思われる調査結果に基づき、被爆地域とは扱いの異なる「特例区域」が新設された。

 調査は、原爆投下直後の45年8~12月に広島管区気象台(当時)の技師らが行った。8月6日の気象状況と数百人の証言を基に、爆心から北西に広がる長さ約29キロ、幅約15キロの楕円(だえん)形の範囲に雨が降り、そのうち長さ約19キロ、幅約11キロの範囲が大雨だったと推定した。

 特例区域は、この大雨地域から被爆地域を除いた部分。区域内にいた人には年2回の無料の健康診断を提供し、白内障など放射線の影響が否定できない疾病だと診断されれば被爆者健康手帳を交付するとした。

 新しい制度は、広島市がさらなる援護の充実を求めて勝ち取った結果だった。しかし同じ村を、1本の川を境に「(強く)降った」「(少ししか)降らなかった」と区別するもので、今日まで続く論争の火種となる。

向井均さんが保管する資料や地図(画像の一部を加工しています)

 ▽草の根運動と「科学」の壁

 「黒い雨を見た」「不公平だ」。運動史を研究する広島市の向井均(ひとし)さん(78)の書斎には、雨の体験がつづられたメモやアンケートなどが箱詰めで積み上げられている。援護区域の見直しを求める住民運動を先導し、9年前に93歳で死去した村上経行(つねゆき)さんが残したものだ。

 援護から外された町々では、特例区域指定の直後から小規模ながら住民団体が組織された。78年には、市民運動家だった村上さんや地元議員らが各団体をつなげる「広島県『黒い雨・自宅看護等』原爆被害者の会連絡協議会」(後に「県『黒い雨』原爆被害者の会連絡協議会」に改称)が地元議員らを中心に結成、運動を本格化させる。

 翌年には約2万筆の署名を携えて東京に乗り込み、旧厚生省や国会議員らと面会。集会を開いて証言を集め、市や地元町村への陳情も重ねた。

 しかし訴えとは裏腹に、被爆者援護の基本方針を検討するために設けられた厚生相の私的諮問機関が80年「被爆地域の指定は科学的・合理的根拠がある場合に限定するべきだ」と答申。国は残留放射能など黒い雨の物理的な痕跡が見つかっていないことを理由にさらに態度を硬化させた。

被爆後の広島の航空写真。円内の色の濃い部分は原爆で完全に破壊された所を示す。軍事施設と工業施設には番号が振られ、それぞれの破壊の程度が記されている=1945年8月、米陸軍航空隊情報部撮影(ACME)、米国のデーリー・ニューズ社から入手

 ▽一進一退

 89年、気象学者の増田善信氏が定説より4倍広い新雨域を学会誌で発表し、降雨域の問題は全国的な注目を浴びる。「卵形の雨雲があり得るのか」。村上さんの直訴を受けた増田氏が連絡協と協力して集めた2千人を超える証言を分析した結果だった。

 世論の高まりを受け、広島市は専門家会議を設置して気象シミュレーションによる降雨域の推定や残留放射線の再測定、細胞や染色体の異常変異の調査を試みた。だが結論は「残留放射線も人体影響は認めることができなかった。今後も実態解明に努力する必要がある」とあいまいなものにとどまった。

 運動は一時下火となったが、原爆症認定集団訴訟で国の敗訴が続くなどした2000年代に入り息を吹き返す。08年、県と市は約3万7千人を対象にした大規模なアンケート・面接調査に着手。雨を体験したという約1500人分の回答を分析し、実際の降雨域が特例区域の5~6倍だった可能性があることを突き止めた。

広島県・広島市のアンケート調査結果をまとめた報告書(コピー)

 個々の科学者からも被爆地への追い風となる研究結果の発表が相次いだ。広島市立大の研究チームはきのこ雲の写真を解析し、雲の最大高度が通説よりも数キロ高かったと推計。広島大原爆放射線医科学研究所や京都大原子炉実験所(現京都大複合原子力科学研究所)の研究者らも、黒い雨に由来するとみられる放射性物質を特例区域外から検出した。

 ▽最後の望み

 県と市はこれらの新たな「科学的知見」を根拠に区域拡大の要望書を提出。厚労省は放射線や医学の専門家8人で構成する検討会を設置することで応じた。

 約2年にわたる議論の末に検討会が出した結論も明解なものではなかった。降雨域については、県と市が集めた回答が60年以上前の記憶に依拠していることや原爆由来の放射性物質が見つかっていないことなどを理由に「確定は困難」と判断。身体的への影響についても「調査の設計上、評価は難しい」とした。

 県と市の主張を積極的に評価しなかった検討会の報告を受け、政府は12年8月、援護区域の拡大はできないと返答した。当時は民主党政権。政権与党が代わっても開かなかった固い「科学」の扉を前に、最後の望みを託したのが司法だった。

全面勝訴と書かれた紙を掲げる原告側弁護士=7月29日午後、広島地裁前

 ▽焦り

 原告らを被爆者援護法上の被爆者と認めた7月の広島地裁判決は、原爆の放射線による被害の実態が未解明であるがゆえに被爆者を救済するという同法の趣旨を基礎に置いたため、厳密な「科学的根拠」を求める国側の主張を真っ向から否定することになった。

 関係者によると、国は判決が原告の記憶を重視した点を問題視したほか、内部被ばくの危険性を認めた判決が確定することで、他の原爆関係の裁判や東京電力福島第1原発事故を巡る問題へ波及することを懸念。控訴以外に選択肢はなかった。

 「再検証」は、そのようなかたくなな国を前に、県と市が取り付けた約束だが、原告団は「これまでの経緯を十分に踏まえた判断だったのか」と疑問を投げ掛ける。

 連絡協の立ち上げ以来、住民らを支援してきた牧野一見さん(76)は「12年に国が要望を退けた後、県も市も新たな調査は難しいと言った。だからわれわれも訴訟に踏み切った」と話す。

 控訴と再検証方針が示されてから3週間が経過した。「人工知能(AI)」「未解析のカルテ」など言葉は飛び交うものの、具体的な検証目的や内容、スケジュールはいまだ不透明だ。市の幹部は「高齢の住民らに時間はない。とにかくできる限り国に対しアプローチを続けて行くしかない」と焦りを募らせる。

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