カヌー 山口徹正 「世界でやってやろうじゃないか」 ひたすら勝ちたくて 【連載】日の丸を背負って 長崎のオリンピアン

「僕は出ただけで、体操の小田千恵子さんがスターだった」とメキシコ五輪の思い出を語る山口=長崎市、長崎新聞社

 1968年メキシコ、72年ミュンヘン。カヌー男子カナディアンの山口徹正は2大会連続で五輪の大舞台に立った。初出場だったメキシコは「正直、たかがマイナー競技のカヌー。五輪選手だという意識なんかなかった。ただ、ひたすら勝ちたい、世界でやってやろうじゃないかというだけだった」。だが、シングル(C-1)、ペア(C-2)の「二兎(にと)を追わされてしまった」結果、2種目とも予選で敗退した。
 C-1に絞った2度目のミュンヘンは「自信があった」。前年の世界選手権で日本人初のファイナリストとなり、本番直前の世界ランクも4位。メダルを狙える位置にいたが、五輪コーチ陣と「波長が合わなかった」。決勝進出を逃すと、敗者復活戦も5位。2度の五輪は「不完全燃焼」で終わった。

■国内無敗継続
 長崎市出身。山里小、淵中時代は柔道を続け、長崎水産高(現長崎鶴洋高)入学後も柔道部に入った。カヌーを始めたのもそのころ。教師に勧誘されるまま、同好会レベルで発足したチームで活動するようになった。その後は「カヌーばかり乗っていたら、柔道部から“来んでよか”と破門された。良かったかどうかは分からないが、結果、ずっとカヌーに携わる人生」がスタートした。
 人並み外れた体力、運動能力、負けん気の強さ-。結果はすぐに出た。2年の夏にC-2で全国2位、翌年はC-1で高校日本一に輝いた。卒業後は1年間の実習助手生活を経て大正大に進学。1年の10月に全日本学生選手権C-1を制して以降、ミュンヘンで引退するまで国内無敗という圧倒的な強さを示した。
 恩師がいる。大学時代に居候させてもらった寺の住職、藤木宏清は「とにかく厳しい人だった」。言葉遣い、服装、箸の上げ下げ…。「カヌーはどうでもいい。しっかりした生活をしなさいと言われていた」。そんな規則正しい生活は競技にも好影響を与えた。「五輪を狙いたい」。思い切って初めてうち明けた相手は、藤木だった。

■東京は集大成
 ミュンヘン後、日体協(現日本スポーツ協会)に就職。定年まで勤め、現在は日本カヌー連盟顧問として会長代行などを任されている。東京五輪の準備が本格化したころは、現場の実質的トップとなる専務理事だった。
 高校1年からずっと続いてきたカヌー人生。その集大成ともいえる東京五輪の代表に、長崎県から水本圭治(チョープロ)が入った。「長崎からは4人目。めちゃくちゃうれしい。とにかく勝たせたいね」。運営から競技に頭のスイッチが切り替わった瞬間、思いは若いころのそれに戻る。=敬称略=

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 新型コロナウイルス感染拡大の影響で、1年延期された東京五輪。日本のスポーツ界は目標を見失いかけたが、今、多くの選手たちは気持ちを切り替え、夢の舞台を目指して再始動した。その世界最大のスポーツイベントを経験した長崎県のオリンピアンに、当時の思い出などを聞いた。

 【略歴】やまぐち・てつまさ 長崎市出身。長崎水産高(現長崎鶴洋高)でカヌーをはじめ、大正大時代に日本代表入り。1968年メキシコ五輪、72年ミュンヘン五輪に出場、76年モントリオール五輪はコーチとして帯同。71年ベオグラード世界選手権で日本人初のファイナリストになった。ミュンヘン五輪後に日本体育協会入り。国体課長などを務め、退職後、日本カヌー連盟の理事、常任理事、専務理事を歴任してきた。横浜市磯子区在住、73歳。

メキシコ、ミュンヘンと2大会連続で五輪に出場した山口=メキシコ

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