レスリング 宮原照彦 「やり遂げた先にあった舞台」 競技歴10年の集大成 【連載】日の丸を背負って 長崎のオリンピアン

「今でも五輪で試合している夢を見ることがある」と語る宮原=島原市

 五輪のためにすべてを犠牲にしたとか、夢としてずっと頑張ってきたわけではない。1976年モントリオール五輪、レスリンググレコローマン62キロ級日本代表の宮原照彦にとっては「競技歴10年の集大成。自分が一度やり始めたことを納得するまでやり遂げた先にあった舞台」だった。

■仕事との両立
 69年長崎国体を高校3年で迎える“国体世代”だった。島原工高から始めたレスリングで優勝を目指したが、結果は3位。「このままでは終われない」と日体大へ進んだ。その決意通りに、2年から全日本インカレで3連覇。4年時はユニバーシアードで4位に入るまで成長した。
 72年ミュンヘン五輪の最終予選は、世界王者でもある恩師の藤本英男に負けた。大学に残って五輪を目指す道もあったが「教員になりたかった」。卒業後に佐賀で2年勤めた後、鹿町工高に赴任。柔道部の顧問をしながら、レスリング選手としても第一線で活躍した。「この3年間は日本で負けていないし、ポイントも取られていない」
 持論は「体力さえ落とさなければ、技術は簡単に衰えない」。生徒たちに教えながら、朝は約10キロ走った。大学や全日本代表の練習では、自分の技を見せず、悟らせないような駆け引きもした。あえて普段の右構えと違う左構えで全部やっていた。「日ごろの練習は負けてもいい。逆に相手が技を掛けてきたら、掛かってやるようにした。そうすれば本番で“あの技でくる”と読めるようになる」。工夫を凝らし、仕事と両立させてつかんだ五輪切符だった。

■教え子に示す
 五輪本番の対戦相手は、各種国際大会で一度は手合わせした強敵ぞろい。当時、分析するのは難しかったが、自らの実戦メモを頼りにイメージをつくって臨み、イタリア、カナダ、イラン、ルーマニア代表を次々と倒した。
 最も印象に残っている試合は世界王者のダビディアン(ソ連)戦。「勝てば金メダルだったが、負けて4位。でも、悔いはなく、やりきった感じ。折しも自分の25歳の誕生日だった」。ここで現役を引退すると決めていたので、選手村に戻って生まれて初めてたばこを吸った。練習着や靴をごみ箱に捨てた。
 けじめをつけて帰国した後は指導に専念した。大切にしたのは学業と部活動の両立。五輪に出場したのも「生徒のためになれば、ひいては長崎県の競技力向上に寄与できれば」という思いからで、教員が自ら挑戦する姿を見せるためでもあった。やればできると教え子たちに示した上で、指導に全力を尽くした。
 69歳の今も日体大女子の特別強化委員長を務める。「経験や社会人としての知識教養、キャリア教育を伝えるのが役目」だと自らに課して活動を続ける。そんなベテラン指導者が来夏の五輪に期待することはスポーツ界全体の成長。「日本に世界のトップアスリートが集まる機会は少ない。やるだけじゃなく、見る、応援するもスポーツ。新しいスポーツ文化の転換点になってほしい」=敬称略=

 【略歴】みやはら・てるひこ 南島原市出身。駐在所の警察官の指導を受け、南有馬中から柔道を始めた。島原工高でレスリングに転向。日体大で実力が開花し、卒業後に全日本選手権3連覇を成し遂げた。島原高レスリング部顧問として県高総体団体9連覇。波佐見高、長崎南高の校長を務め、県高体連会長や日本レスリング協会評議員、島原市教育長などを歴任。現在も県、九州のレスリング協会長を務める。島原市在住、69歳。

モントリオール五輪レスリンググレコローマン62キロ級に出場した宮原=モントリオール

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