自転車 豊岡弘 「初出場でメダルは無理だと思った」 かけがえのない経験 【連載】日の丸を背負って 長崎のオリンピアン

「初めての五輪でメダルを取れる人は常人じゃない。僕は無理だった」と語る豊岡=佐世保市、佐世保競輪場

 大野小6年の冬。豊岡弘は今は亡き父、哲則から突然“通告”された。「おまえはあしたから自転車競技をやることになったから」と。
 正直、父が何を言っているのか分からない。やりたいと思っていたわけでもない。そんな「嫌々自転車に乗っていた」という少年が8年後の1988年秋、短距離のエースとしてソウル五輪の舞台に立つ。「父のおかげという感慨は特になかった」が、大会の規模の大きさ、異様な雰囲気は今も忘れない。「正直、誇らしげな気持ちはあった。ひと言で言えば宝物。かけがえのない経験になった」

■「楽をしよう」
 小学6年から大野中を卒業するまで。毎日約20~30キロの距離を、父のバイクの後についてペダルをこがされた。中学入学後、やりたくなくて「陸上部に入る」と宣言してみたが、父の返答は「いいよ、その代わりに朝からね」。早朝5時半から約1時間、自転車に乗る日々が続いた。勉強に加えて、陸上、自転車…。当時の人気番組「ザ・ベストテン」などを見る時間もなく、翌日のクラスの話題に「ついていけなかった」。
 このころ、常に考えていたのが楽をすること。「強くならなければ、おやじも諦めるだろう。だから、どうすれば楽に走れるかだけを試していた」。だが、皮肉にもこれが、自らに合ったスタイルを突き詰めていく。中学3年になると、県内に勝てない高校生はいなくなっていた。
 西海学園高進学後は、恩師と慕う小森公也監督の下、一気に国内トップレベルへ成長。3年の6月、全日本アマチュア選手権でスプリントと1000メートルタイムトライアル(TT)の2種目を制すると、アジア大会のスプリントで銀メダルに輝いた。早大進学後も国内のタイトルを次々に獲得。だから、五輪出場が決まったときは「やったではなく、ホッとした」というレベルにまで達していた。
 だが、本番は「悔いが残った」。1000メートルTTで自己ベストを下回る1分7秒246の16位。「一人ずつ走る種目なので、観客全員が注目している。異様な雰囲気。よほどの神経じゃないと、初出場でメダルなんか無理だと思った」。新進気鋭の19歳は“五輪の魔物”にのみ込まれた。

■出るだけでは
 当時、自転車はプロの参加が認められていなかったため、大学卒業後にプロを選んだ豊岡と五輪の縁はここで切れた。「もう一回出られれば…」とも考えたが、プロ一本に絞った。それから38歳までの13年間は、競輪選手として最高峰のS級で活躍した。
 現在は鹿町工高の保健体育教諭として、生徒たちの指導を続ける。アマでも、プロでもトップを走ってきたという実績がある上に、指導は熱く的確で、子どもたちからの信頼も厚い。そんなハイレベルな世界を知り尽くした先生が、来夏の五輪を目指すアスリートへエールを送る。
 「僕みたいに出場が決まってホッとしたじゃだめ。終わってから、もっと頑張っておけばとならないような準備をしてほしい」
=敬称略=

 【略歴】とよおか・ひろし 佐世保市出身。西海学園高3年時に全日本アマチュア選手権で2種目V。早大2年の1988年9月、ソウル五輪の1000メートルタイムトライアルに出場した。国体は高校、大学時代に7回出場して優勝2、入賞8回。大学卒業後は競輪選手として、約13年間S級で活躍した。2007年に引退後、保健体育教諭として鹿町工高に赴任。座右の銘は「我以外皆我師」。佐世保市在住、51歳。

早大2年で五輪に出場した豊岡=ソウル市内

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