36年前の強盗殺人事件「父ちゃんは何もやってへん」 無実を信じ、帰りを待ち続けた家族の思い

日野町事件の再審開始を認める決定をした大津地裁の文書を掲げる阪原弘次さん=2018年7月

 もしもあなたの家族が冤罪(えんざい)に巻き込まれたとしたら?殺人事件の犯人にさせられたら?フィクションの中だけでなく、確実に存在し、そして繰り返される冤罪事件。自分とは関係ない世界?そう考える前に、ある家族の物語に耳を傾けてほしい―。36年前、滋賀県の小さな町で起きた強盗殺人事件。逮捕された父親の死後、遺族が起こした再審請求で、驚くべき不正捜査の実態が判明した。生前は父親の帰りを待ち続け、現在は名誉回復を求めて闘う息子が、これまでの苦難を語った。(共同通信=武田惇志、福田亮太)

 ▽初めての涙

 「いつも笑っている父でした」と長男の阪原弘次さん(59)は、在りし日を思い浮かべる。

 事件のあらましはこうだ。1984年12月29日、滋賀県日野町にあった酒屋「ホームラン酒店」の女性店主=当時(69)=が突然、行方不明になった。翌1月、町内で他殺体となって見つかり、4月には店の金庫が山中で発見。3年後の88年3月、店頭で飲酒する常連客だった弘次さんの父、弘(ひろむ)さん=当時(52)=が、警察の任意聴取で犯行を自白し、強盗殺人容疑で逮捕された。いわゆる「日野町事件」である。

事件を報じる当時の新聞のコピー

 逮捕当時、弘次さんは弘さんと母つや子さん(83)の3人暮らしで、妹2人が結婚して家を出たばかりの時期。弘さんは工場での夜勤仕事に精を出す日々を送っていた。

 酒好きの弘さんはよく飲みに出ていたというが、ホームラン酒店をはじめ、近所の酒屋やスナックではいつもツケで飲める間柄。犯行動機と目された「酒代欲しさ」など考えられないと弘次さんは言う。しかし88年3月、日野署への任意同行に応じた弘さんは、午前8時から午後10、11時までの長時間にわたる取り調べを3日間受け続けた末、店主殺害を自白。逮捕、起訴されることになる。

 「父ちゃんはやってへん。誰も信用せんでも、おまえらだけは信用してくれ」。逮捕前日の夜、取り調べから帰宅した弘さんは家族に泣きながら訴えた。「『娘の嫁ぎ先に行って家の中ガタガタにしたろか』『親戚に手錠かけたろか』などと警察に言われて、我慢できんかった」と涙を流しながら釈明もした。弘次さんたち兄妹が初めて見た父の涙だった。

 「父ちゃん、なんでそんなこと言うん。父ちゃんがやったって言ったら、私らは殺人犯の家族になってまうんやで。それでもええんか」と長女の美和子さん(57)が説得すると、「明日警察に行ったら、今日言うてきたことをひっくり返してくる」と約束した。その際、弘さんが「父ちゃん明日、入れ歯外して行くわ」と言うので、不審に思った弘次さんが「入れ歯なかったらちゃんとしゃべれんへんやん」と突っ込むと、「警察に殴られるとき、入れ歯の金具があごに当たって痛いんや」と説明。弘次さんたちはそのとき初めて、刑事が束ねた鉛筆で弘さんの頭をこづいたり、パイプ椅子を足で払ったりする暴行を加えていたことを知った。

 しかし翌日、弘さんは再び自白してしまい、逮捕された。裁判では一転して無罪を主張し、知的障害があるとも鑑定されていたが、95年に大津地裁は無期懲役を言い渡した。

鳥取砂丘で孫を抱く故・阪原弘さん=遺族提供

 逮捕後、家族は「父ちゃんは何にもやってないさかいに、堂々としてよう」と話し合って決めた。しかし、小さな町で貼られた「殺人犯の家族」のレッテルは容易にぬぐえなかった。無言電話や「町から出て行け」とのいたずら電話が何度も続き、母つや子さんはノイローゼ状態に。結局、逮捕から1カ月で、一家は日野町から彦根市に引っ越さざるを得なくなった。

 無期懲役の判決は2000年、最高裁で確定したが、弘さんは諦めず、裁判のやり直しを求めて01年に再審請求を提起。審理の結果、再審可否を決める決定日は5年後の06年3月となった。

 その日、服役中の弘さんは大津地裁の別室で、一人で決定文を受け取る手はずだった。弘次さんは部屋の外で待機していたが、扉に耳をくっつけて弘さんの様子をうかがっていた新聞記者たちが、「棄却」という言葉を口にしたのを見てしまった。「ガクっとなった。歩くこともできない。そのとき立ってたのか、座ってたのかも記憶にないほど。あの時ほどつらかったことはない」。心が折れ、記者からの取材も受ける気になれなかった。

 ▽「ミカン箱2箱の人生」

 10年秋、弁護団長の伊賀興一弁護士が広島刑務所へ弘さんとの面会に訪れたが、「本人は会わないと言っている」と職員が拒絶した。「弁護士が来ていて会わないというのはおかしいやろう」と職員の対応に驚いた伊賀弁護士が粘ると、弘さんはストレッチャーに乗せられた格好で現れた。見るからに衰弱しており、伊賀弁護士は病院に入院させようと検察にすぐ刑の執行停止を申し立て、認めさせた。刑事訴訟法の規定では、検察官は受刑者が重い病気などの際、治療のために一時的に釈放することができるとしている。

 弘さんは釈放され、広島市内の病院へ入院。弘次さんは釈放を告げる通知書を検察官らから受け取り、病床に横たわる弘さんのそばで書面を読み上げた。その際、弘次さんは「父ちゃん、全部終わったんやで。もうこれで家に帰れるんやで。一日も早く病気直して家帰ろうな」とあえて嘘をついた。弘さんはその時、声を上げて大泣きしたという。「それだけ父は家に帰るのを夢見てたんやろうな」と弘次さんは振り返る。

取材に応じる長男の弘次さん=8月5日、滋賀県彦根市

 しかしその願いもむなしく、75歳の弘さんは半年間の闘病の末、肺炎で死亡。再審請求も打ち切られた。その後、刑務所から弘さんが生前に使っていた荷物が届いたが、ミカン箱がわずか2箱に過ぎなかった。

 家族4人はあらためて今後の再審についてどうしようかと話し合ったが、「もうええやん」「やめとこう」と口々に言い合い、諦めムードがその場を覆っていたという。そんな時、ミカン箱を眺めていた次女の則子さん(55)がぽつりとつぶやいた。「父ちゃんの人生って、いったいなんやったんかなあ。たったミカン箱2箱なんやで」。

 則子さんの言葉に触発されたのか、「わたしらのために捕まって、24年も刑務所で暮らしてくれたんやで」と長女の美和子さんが続ける。「このままでええんか」。4人はせめて弘さんの名誉だけでも回復しようと誓い、2度目の再審請求を決意した。父の喜ぶ顔は見られなくても、お墓に報告に行こう。いまだ中身を開けられないというミカン箱2箱が、今も戦う原動力になっている。

 ▽墓参り9回

 当初、弘さんに無期懲役を言い渡した一審判決は、供述の変遷や矛盾から、弘さんの自白は信用できないと判断していた。では、なぜ弘さんを有罪としたのか。決定的だったのは、犯行を再現する「引き当たり捜査」で、弘さんが山中にあった金庫の発見現場まで捜査員を案内できたという事実だった。

 しかし第2次再審請求審で裁判官が証拠開示を命じ、捜査写真のネガが開示されると、警察は発見現場からの帰りに撮影した写真を、まるで往路に撮影したかのように入れ替えていたことが判明。「なんてひどいことするんや」と弘次さんも驚き、あきれたという。弁護団によると、検察側は「意図的に帰り道の写真を往路の写真に使用したわけではない」と釈明している。

 そうして迎えた、再審可否の決定日となった17年7月11日。「前日に、過度の期待はしないでおこうと家族では話していたんですが、やっぱり期待してしまうんですね」と弘次さん。JR大津駅までの電車の中では緊張で口を利けなかったという。

 裁判所の書記官室には、弘次さん、美和子さん、則子さん用の分厚い決定文がそれぞれ3冊、机の上に並べられていた。表紙を1枚めくれば、再審を開始するかどうかの「主文」が書いてあるのだが、誰も開けられない。隣にいた弁護団長の伊賀弁護士も開けようとしなかった。部屋の外では、若手弁護士2人がそれぞれ「再審開始」「不当決定」の垂れ幕を持って、今か今かと報告を待っている。そうこうするうち、後ろにいた別の弁護士が、美和子さんの決定文をぺらっとめくった。

伊賀興一弁護団長=2018年7月

 途端に美和子さんはがくんと泣き崩れ、それを見た弘次さんは「これが現実やったんやな」と心の中でつぶやいた。伊賀弁護士も壁に手をついて大きくため息を吐き、「あかんかったか」と声を落とす。しかし即座に美和子さんが「ちゃうちゃう、見てみい」と否定するので、弘次さんらが決定文に目をやると、主文は「本件について再審を開始する」。すぐに喜びがあふれてきた。開始決定を知った弁護団の長尾一司弁護士は地裁の正門前に駆けだし、集まった支援者や報道陣の前で「再審開始」の垂れ幕を高々と掲揚。午後2時半すぎだった。

 「あのときは墓参りを9回も行ったんですよ」。決定後、報道記者から弘さんの墓参を何度もせがまれたが、全く苦にならず「うれしいから何回でも行ける」と弘次さん。証拠写真の入れ替えについても厳しく批判し、「捜査官の軽率な態度は厳しく非難されるべき」とさえ断じた再審開始の決定文は、何度も読んたために表紙がぼろぼろだという。

 ▽幸せやったと…

 再審開始決定後、大津地検が不服を申し立てて即時抗告したため、大阪高裁があらためて審理することになった。高裁が即時抗告に理由を認めず棄却すれば、大津地裁で再審公判が開かれることになる。そこで無罪判決が出て確定することで、初めて弘さんの名誉回復となるのだ。しかし検察が棄却決定に再び不服を申し立てて特別抗告すれば、今度は最高裁に再審可否のボールが預けられることになり、名誉回復の道は遠のいてしまう。こうした検察の不服申し立てについては近年、いたずらに再審開始を長引かせているとして法改正を望む声も根強い。

 日野町事件も、検察の不服申し立てからすでに2年が経過。弘さんの逮捕当時50歳だった妻つや子さんは現在、83歳だ。2年前に脳梗塞となってから体が弱っているといい、「まだ意識あるうちに父の無罪を勝ち取って、せめて母だけは喜ばせたい」。ことし6月には再審請求審で主任弁護人を務めた玉木昌美弁護士が亡くなり、関係者の高齢化は進む。

阪原弘次さん

 無罪を勝ち取ったら、弘次さんの住む彦根市に弘さんの新しい墓を建て、日野町事件の顕彰碑を作るという目標もある。「こんなことを忘れろって言われても忘れられないし、二度と起こってほしくないから」。そうして毎月、墓参して弘さんの魂を弔いたいという。「父の人生を考えたときに、幸せやったと思いたいですけどね。みんなが支援してくれて。だけどそんなはずないですよね。あんなにつらい人生を歩んだ人はそういない。そやから腹立たしいんです」

 弘次さんら遺族は、1日でも早く雪冤(せつえん)の日が来るよう、再審の開始を待ち続けている。

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