鎌倉幕府は、日本で初めて武士が作った幕府です。
そしてそれを終わらせたのも、同じく鎌倉幕府を作った武士たちでした。
初めて天皇や皇族ではない人間が政権を握りましたが、本当に苦労の連続でした。
政治は初めての事も多く間違いや失敗も有り、後世振り返れば粗雑な組織の部分もありましたが、武士たちが理想の政権を夢見て実現させようとしたロマンもあります。
ここででは、そんな鎌倉幕府を作り上げた人達と、その頂点に位置した将軍達についてご紹介していきます!
鎌倉幕府とは?
鎌倉幕府は約260年以上も続いた、将軍を頂点に置く政治体制のことを言います。
それは、よく徳川幕府や室町幕府と比べられますが、鎌倉幕府は後世の幕府のそれらとは実は似て非なるものです。
理由は、鎌倉幕府とは日本で最初に武士が朝廷から独立した政治をする事を目指して立ち上げた、最初の政府だったからです。
鎌倉幕府の歴代将軍の特徴
まず最初に鎌倉幕府は、その後の室町幕府や徳川幕府と比べられる事が良くあります。ただ鎌倉幕府と、室町幕府・徳川幕府とは一つ大きな違いがあります。
どの幕府も数百年以上長く続きましたが、鎌倉幕府は将軍の人数が少ないというところです。鎌倉幕府は将軍の数が10人なのに対して、室町幕府は15人、徳川幕府も15人です。
将軍の人数は10人、重要なのはそのうち9人
実際の鎌倉幕府の将軍の数は本当は全部で10人ですが、重要なのは9人なのでこれだけ覚えればOKです。
また室町幕府や徳川幕府では、一応将軍にそれなりの活躍や実績がありましたけれども、幸か不幸か鎌倉幕府の将軍達は、3代将軍以降は殆ど実際の業績がありません。
ほとんどの将軍が北条氏による鎌倉幕府の飾り物としての将軍だった為に、実際の歴史の資料にもあまりその存在が出て来ないのです。
覚えるには嬉しいけれども、なんだか少し残念な感じもする。そんな鎌倉幕府の将軍達の一覧の家系図をまずは、少しだけ見てみましょう。
鎌倉幕府の初代将軍、源頼朝
言わずと知れた鎌倉幕府の初代将軍です。弟に源平合戦で活躍した事でも有名な源義経がいるのでも、有名な征夷大将軍です。彼が居なかったら鎌倉幕府も当然ありませんでした。妻は北条時政の娘、北条政子です。
鎌倉幕府の2代将軍、源頼家
頼朝亡き後に2代目将軍となった頼朝の長男です。将軍になっていた期間は他の将軍に比べても極端に短い約一年ほどでした。弟の実朝と争いから北条氏との間に対立が起こってしまい、頼家は将軍職を剥奪されて、伊豆国修禅寺へ幽閉された後に暗殺されてしまいます。不運の二代目将軍です。
鎌倉幕府の3代将軍、源実朝
鶴岡八幡宮にて頼家の子である、公暁に暗殺された事でも有名な3代将軍。
鎌倉の鶴岡八幡宮の正面階段脇にある大銀杏跡で暗殺され、今は観光名所になっています。もしかしたら、日本で一番暗殺された場所が有名な将軍かも知れません。
鎌倉幕府では事実上源氏最後の将軍となり、ここで源氏将軍は断絶してしまいます。実朝が将軍の期間に北条時政が執権になります。そして、その後は北条氏の執権政治が本格化していく事になります。
鎌倉幕府の4代将軍、藤原頼経
頼朝の血筋が途絶えた後に、源氏と血縁関係にあった為、将軍になりました。
源氏将軍から藤原氏嫡流の公家家格頂点となる五摂家が確立されて、近衛家、九条家、二条家、一条家、鷹司家の中の九条家から将軍となり、以降摂家将軍の時代になります。
頼経はその初代にあたります。
折角将軍になった頼経でしたが、北条氏の執権政治に反対する勢力に利用されてしまい、京都へと追放された後に没してしまいます。
鎌倉幕府の5代将軍、藤原頼嗣
藤原頼経の子で、二代目の摂家将軍である同時に最後の摂家将軍であり、以降は皇族からの将軍になるので、武家の血縁からの将軍も最後になってしまいます。お飾り将軍に移行する前の、最後の将軍という事にもなりますね。
鎌倉幕府の6代将軍、宗尊親王
五摂家である九条家が将軍になる事を嫌った天皇と、九条家の勢力拡大を快く思わない鎌倉幕府の北条氏の思惑が一致した事から、皇族から将軍になった初の皇族将軍。
以降鎌倉幕府の将軍は、皇族から迎える事になります。
宮将軍の誕生で、以降は鎌倉幕府の将軍職は本格的な傀儡将軍の歴史になっていく事になります。
鎌倉幕府の7代将軍、惟康親王
北条氏の執権政治の政策で、源惟康という源氏名を与えられた宮将軍です。
時代は蒙古襲来の危機感があった最中、全国の武家の象徴としての将軍に源氏の威光が欲しかった為にあえて源氏名がつけられました。
ですが、実際に何か北条氏よりも権力があったわけでもなく、あくまでも象徴としての存在でした。
鎌倉幕府の8代将軍、久明親王
皇族将軍としては三代目で38歳の時に、北条氏により将軍職を解任される。その後は京都で出家し53で亡くなりました。生前の資料はあまり残されていないのですが、彼の在位中は将軍と北条氏との関係は良好だったと歴史は伝えています。
鎌倉幕府の9代将軍、守邦親王
鎌倉幕府最後の将軍。
鎌倉幕府の将軍の中で、24年9カ月という将軍の在職期間は最も長い将軍でした。
事実上鎌倉幕府の頂点にいたはずの彼ですが、鎌倉幕府が滅んだ際に北条一族が非業の最後をとげた話は伝わっている中で、彼の生死は明らかになっていません。
鎌倉幕府を倒幕する際にも、彼の名前は一切出なかったと伝わっています。本当に鎌倉幕府にとって将軍は、敵にとっても幻だったのかも知れませんね。
鎌倉幕府の将軍のわかりやすい覚え方
鎌倉幕府の将軍は全員で9人しかいない上に、大きく分けると3のグループに別れます。源氏将軍、摂家将軍、皇族将軍の3つです。
まとめてしまうと結構簡単に覚えられます!
源氏将軍
鎌倉幕府を作った最初の将軍源頼朝と、その子孫が将軍だった三代目までを源氏将軍と呼びます。源氏の血筋が三代目までは続いていたということですね。
源頼朝(1192ー1199)
源頼家(1202ー1203)
源実朝(1203ー1219)
摂家将軍
鎌倉幕府の将軍から源氏の血筋が途絶えた後、源氏の縁戚だった藤原氏を鎌倉幕府の将軍の座に京都から呼び寄せ、新しい将軍に迎えたものを摂家将軍と呼びます。
藤原頼経(1226ー1244)
藤原頼嗣(1244ー1252)
皇族将軍
鎌倉幕府の将軍に源氏の血縁でも縁戚でも無い、皇族から将軍を迎えた形を皇族将軍と言います。鎌倉幕府が滅亡するまで皇族将軍が続きました。
宗尊親王(1252ー1266)
維康親王(1266ー1289)
久明親王(1289ー1308)
守邦親王(1308ー1333)
最初は将軍にも実力があり、親分や統領的な立場にあったものが、次第に世襲の形式的な立場になり、最後には実態が無い様な幻の存在となって歴史の彼方へ。その存在そのものが消えていってしまいました。
その歴史的にもミステリアスな終わり方と存在が、鎌倉の歴史ロマンと魅力の一つにもなっているのかも知れません。
そんなある意味鎌倉幕府の将軍が飾り物として君臨していた中で、実際に鎌倉将軍を動かしていたのが、初代将軍源頼朝の妻の実家である北条氏でした。
そんな北条氏によって、鎌倉幕府と将軍が補佐され続け、実際に政治が収めていた事で鎌倉幕府は成り立っていました。
そんな鎌倉幕府の仕組みの上で重要なのが、北条政子の父である北条時宗がなった執権という役職です。
この執権とは何なのでしょうか? どうして鎌倉幕府には執権という役職が必要になったのでしょう。 次はそのあたりを簡単に解説していきましょう!
鎌倉幕府に執権ができるまで物語
政治体制ができず、有能な人材を側近にした
鎌倉幕府は、源頼朝が作り上げた時点では各地の御家人と言われる武士達が寄り集まってできた総互助会の自治会の様な形でした。
なのでしっかりとした政治体制は、すぐには出来ていませんでした。
そのため政治に長けた人材が必要となり、頼朝は多くの有能な人材、官僚を側近に置きました。
最初の側近は、大江広元
戦国時代に活躍した大名で、幕末に大きな役割を果たす事になる長州藩の生みの親でもある毛利元就の祖先、大江広元は、源頼朝が生きている時には実質幕府の中の政所と呼ばれる政所別当を担当していました。
彼の役所は、今で言うと総理大臣の様な最高職に近い立場です。
彼の他にも軍事にわたる重要な役割を果たしていた、今では江ノ電の駅名である和田塚の名前にもなっている和田氏等、御家人と言われる鎌倉の武士達が、出来たばかりの鎌倉幕府を多方面で支えていました。
頼朝時代の北条氏は、頼朝の血縁ではあっても、鎌倉幕府の中では、まだそんな頼朝の側近である彼ら御家人集の一人でしかありませんでした。
頼朝が亡くなると、役職を巡り争いが起る
やがて頼朝が亡くなると、将軍の地位を兄弟で争い、互いに御家人を従え敵味方に分かれる状況に。
次第に有力な御家人達が鎌倉幕府の役職をめぐり、互いに争う様になっていきます。
すると、御家人同士の力関係にも変化が起きてくる様になりました。有力な御家人が争い、相手が滅ぶと、相手の役職を武力で奪い取るという、なんとも血生臭い政局が鎌倉幕府の中では起こりました。
そんな中で、争いを仲裁するリーダー的な存在が、将軍以外にも必要になってきたのです。
北条時政が執権になり、争いごとを仲裁した
そんな将軍の兄弟達が互いに争い、リーダーが不在の状況の中で、その役目をかって出たのが頼朝の血縁でもある北条氏でした。
こうして3代将軍の時代に頼朝の妻であった北条政子の父、北条時政は初代執権になり、鎌倉幕府の重要な取り決めを、将軍に代わり執り行う様になって行きます。
こうした北条氏の権力の拡大に、不安や不満を持つ御家人もいた反面、争いごとを仲裁する立場の有力な勢力が幕府の中に誕生する事は、鎌倉幕府の安定にも繋がっていった為、多くの御家人からは支持を得たのでした。
やがてそんな御家人の信頼も得た北条氏の執権政治は、将軍に代わり鎌倉幕府の顔となります。
3代目執権北条泰時の時代になると、御成敗式目を制定するなど、鎌倉幕府の政府機関としての屋台骨を作り上げていきました。
そして実際に裁判や実務を取り仕切る、鎌倉幕府としての役割を将軍に代わり担うこととなるのです。
鎌倉幕府の将軍を補佐した執権とは?
徳川幕府や室町幕府で思い描く、幕府というイメージで言うところの将軍とは、将軍がトップにいて、すべてを取り仕切っているイメージがあるかも知れません。
ただ実際には、鎌倉幕府の時代では将軍にはそんな力はありませんでした。
初代将軍の源頼朝でさえ将軍としての絶大な力はそれほどは無く、あくまでも「全国の武士を束ねる武士の統領」としての立場そんな感じのものでした。
それでも幕府を開いた当初は彼が直接いろんな決定を下し、またその決定にも御家人は従い行動しましたが、実際に内政の実務となるととても彼一人ではまわりません。
そのため多くの武士達の助けが必要だったのでした。
実際に平家を倒し自らの政府を作り上げるため、源頼朝に従い各地の武士達が、地元の軍勢を率い駆けつけてくれたことで、鎌倉幕府も出来上がっていましたが、中でも三浦半島の三浦氏は、各地の御家人の中でも一番の軍勢を率いていました。
その他にも北条政子の父である北条氏の他、流人時代からの側近であった安達盛長等、沢山の側近や有力な御家人が将軍である頼朝を支え、補佐してくれていました。
そんな中で後に執権という役職に付き事実上鎌倉幕府のトップになる北条氏は、頼朝と血縁ではあったものの軍事力では他の御家人には敵いませんでした。
頼朝の死後、変わったパワーバランス
やがて頼朝が亡くなり、頼朝の息子達が互いに争う様になると、自分達の作り上げた鎌倉幕府を自分たちで補佐しなければいけなくなりました。
その頃から将軍とその他の御家人達とのパワーバランスが崩れていき、またその過程で北条氏の力も次第に鎌倉幕府内で伸長していく事になります。
鎌倉幕府は、頼朝とその妻である北条政子の実家だった北条氏によって作り上げられた政府機関で、将軍の役職こそ飾り物でしたが、全体的には頼朝の作ったロマンを北条家が最後まで持続させた産物、という見方も出来るかも知れません。
実際に鎌倉を訪れると、いろんなお寺で、北条氏の家紋である龍の鱗模様の三角菱形のマークを良く見かけます。
鎌倉幕府の時代が進むにつれて、北条氏の力を見せつけるための宣伝材料の一貫として、鎌倉にやって来る人々に見せつける為、その沿道に建てたと言われています。
そんな鎌倉幕府における北条氏の絶大な権力を作り上げた執権政治、将軍こそわずか9代で終わってしまいましたが、では、北条氏一族はどの様にして鎌倉時代を生きたのでしょうか?
今度は、その系図をたどりながら鎌倉幕府をみてみましょう。
鎌倉幕府を補佐した執権の系図
執権の方が、将軍より期間が短い理由
鎌倉幕府の将軍が全9代で終わっている中、北条氏の執権は何代まで何人続いたのかと言うと、実はそれよりも多く16代まで続いています。
幕府が始まってから7年後に北条氏の執権が始まっているのに、将軍よりも人数が多いのはどういうことなのでしょう。
答えは簡単で、名誉職であり飾り物であった将軍は、執権にとって邪魔な存在にならない限りは、暗殺される事もなく、何代、何人もと代わる事無く続けていられたからです。
特に皇族将軍になってからは政治に関係もしていなかった為、政局的な都合上で追放される事はあっても、その死因が暗殺という様な事はありませんでした。
つまり執権の方が内部闘争や権力闘争が激しく、期間が短い執権が多かった事を示しているのです。
次に多いのは心労や病気が原因とする寿命が短い事です。多くの執権が30代でその職を次の執権に譲り、または亡くなっています。
命の危険も隣り合わせな環境の中で政務を取り仕切っていた執権は、文字通り命を削る仕事だったのかも知れません。
鎌倉幕府初代執権、北条時政
源頼朝の妻である北条政子の父親、初代執権となりその後の鎌倉幕府の北条執権政権の土台を作った。
鎌倉幕府2代執権、北条義時
鎌倉幕府2代目の執権、北条時政の次男で北条政子の弟。
鎌倉幕府3代執権、北条泰時
3代目の執権で善政を敷いたと言われる名執権。御成敗式目の制定した。
鎌倉幕府4代執権、北条経時
泰時の子である北条時実が暗殺された為、泰時の孫である経時が4代目執権となった。
鎌倉幕府5代執権、北条時頼
経時の弟で、反得宗家一派との争いを得て執権と得宗家の地位を固めた。
鎌倉幕府6代執権、北条長時
病弱な時頼から時宗に執権職を譲るまでの間として執権職を任された、2代将軍義時の三男重時の次男。
鎌倉幕府7代執権、北条政村
2代将軍義時の4男。執権の補佐である連署から執権に就任し、時宗が執権に就任すると、再び連署に再任した。
鎌倉幕府8代執権、北条時宗
北条時頼の子で蒙古襲来時の執権。
鎌倉幕府9代執権、北条貞時
時宗の子。わずか13歳で執権に就任し、様々な内政や内乱、御家人同士の権力闘争の中で執権を努めるた挙げ句、出家し従兄弟の師時に執権職を譲った。
鎌倉幕府10代執権、北条師時
5代執権時頼の三男北条宗政の子。執権に就任するも実権は出家していた貞時が握っていた。
鎌倉幕府11代執権、北条宗宣
北条時政の次男時房の次男、北条朝直の孫。師時執権時に連署だったが師時の死去に伴い執権に就任した。
鎌倉幕府12代執権、北条煕時
7代執権北条政村の孫。宗宣が執権に就任した時に連署に就任し、宗宣が出家すると執権に就任した。
鎌倉幕府13代執権、北条基時
2代執権義時の3男重時の4男北条業時の孫。12代将軍煕時が執権を辞任したため、執権に就任する。
鎌倉幕府14代執権、北条高時
9代執権北条貞時の三男。24歳で執権を辞して出家後も影響力を持ち続け、鎌倉幕府の最後には一族と共に自害して果てた。
鎌倉幕府15代執権、北条貞顕
2代執権義時の5男北条実泰の曾孫。高時が病気で執権職を辞し出家すると執権に就任するが、それに反対する高時の弟の北条泰家やその他の御家人による暗殺説が出たため辞職し出家した。最後は新田軍と戦い自害する。
鎌倉幕府16代執権、北条守時
2代執権義時の2男北条重時の次男、北条長時の曾孫で足利尊氏は縁戚にあたる。貞顕が執権を辞職した後、誰もなり手がいなかった執権職に付きましたが、実際は高時らが牛耳っていた。最後は息子の益時や他の北条一族と共に、一味散々(1333)で自害したと言われています。
将軍の体制から執権の体制が出来上がり、そして今度は執権を補佐する連署や得宗家。
更にはその得宗家の執事である内管領が実質的な幕府内での権力者になっていき、最後は執権も将軍と同じ傀儡になっていったのでした。
最初は強かった幕府の将軍や執権の力は、どうして弱まっていってしまったのでしょう?
次はそこを見ていくことにしましょう。
鎌倉幕府の力が弱まっていった理由
実際に鎌倉武士が活躍して出来上がった鎌倉幕府。
でも戦いで活躍した武士達が全員幕府の重要な役職に付いていたわけではありませんでしたので、いろんな事で不満が溜まっていきました。
すると頼朝が亡くなり、源一族が途絶えると、武士の政府である鎌倉幕府を倒そうと言う戦いがはじまります。
衰退する将軍の力
源頼朝が亡くなると、跡目争いが息子達の間で起こってしまいます。
そもそも源頼朝は生前から実の弟の源義経と争いをしていた事もあり、鎌倉幕府の将軍とその一族は、一枚岩ではなく政治体制も不安定なままスタートしていました。
やがて将軍の座を巡って親族感で争いが起こると、自然と将軍と幕府の力も弱まってしまいました。
そんな中で、鎌倉武士の御家人の中で最も力を持っていた北条氏が執権という役に付き、事実上鎌倉幕府を取り仕切る事になります。
ですが、この時を境に武士の政治を快く思わない公家や皇族からは、鎌倉幕府を滅亡させる好機と思われ、鎌倉幕府を滅ぼす天皇の軍勢が攻めて来てしまいます。
鎌倉幕府は創設から10年以内で、早くも滅亡の危機に直面してしまうのでした。
承久の乱の勝利で、北条氏の地位が確立する
衰退していく鎌倉幕府を打倒し、朝廷の政権を取り戻そうという戦いが起こります。
この戦いで朝廷の軍に勝利した事により、北条氏の執権としての地位と北条一族の鎌倉幕府内での立場は、武士の政治と鎌倉幕府を守った英雄として揺るぎないものになって行くことになります。
鎌倉を舞台にした戦いでは無いのですが、鎌倉幕府とその歴史、もっと言えば日本の歴史の中でもとても重要な戦いの一つと言えます。
承久の乱は1221年の年号である承久の時代に起きた戦いなので、承久の乱と言われています。
発端は今まで日本を収めていた京都の朝廷に代わり関東で新しく誕生した武家の勢力を倒そうと、後鳥羽上皇が北条氏に対して兵を挙げた事が切っ掛けによる戦いです。
結果は、鎌倉幕府の北条側の大勝利に終わりました。
そしてこの戦いを境に鎌倉幕府と北条氏は、京都に朝廷を監視する六波羅探題を設置する事になります。
又、天皇や皇族に関する人事等にも影響力を持つ事となり、それまでは関東方面だけの武士の自治政府的なものだった鎌倉幕府が、朝廷を抑えて、事実上日本国全体をまとめ上げる政府機関になっていく転換点になりました。
鎌倉幕府と将軍を支えた内助の功
次第に弱まっていった鎌倉幕府と将軍の力。
そんな中で一番の助けになったのが、源頼朝の奥さんである北条政子とその一族でした。
当初、北条政子と北条一族は積極的な政治的野心と言うより、夫である源頼朝の作った武家の政治を守る意識も強かったのかも知れません。
いずれにせよ彼女の強い政治力と北条一族の活躍、そして御家人の中で最も力を持っていた北条一族に助けられて鎌倉幕府は危機を乗り切る事が出来ました。
源頼朝の生前から側近としての活躍、そしてこうした功績などから、鎌倉幕府の中で北条氏の地位は事実上将軍の次に偉い立場へと自然になって行くことになります。
将軍を補佐した執権も次第に権力が弱まる
承久の乱以降絶大な権力を手にした鎌倉幕府ですが、その執権の地位も次第に、北条氏の中の内部対立により地位が危うくなっていきます。
北条氏一族の中でも、承久の乱の英雄である北条義時以降、分家化が進み、最も家格が高い順に、得宗家、名越流、極楽寺流、政村流、金沢流、そして伊具流と別れ、幕府内の重要な役職を各家が取り合う様な状態になると同時に、惣領の家系である得宗家の権力が強まってきました。
そして次第に得宗家の方が、鎌倉幕府の執権よりも力が強くなっていくという事になっていってしまうのでした。
やがて将軍を補佐する執権を補佐する連署、更には執権や連署を補佐する得宗家の内管領による政治が行われて行くに従い、御家人から一族独占の専制政治状態の幕府になり、同時に幕府の力も弱まっていきました。
御家人みんなで助け合って作られた鎌倉幕府は、将軍の力が弱まり、御家人同士で争い。そして最後は御家人をないがしろにした挙げ句、没落した御家人により結果、鎌倉幕府は鎌倉幕府を作った御家人によって滅ぼされてしまうのでした。
鎌倉幕府の将軍と幕府が滅んだ責任は誰に?
源頼朝が御家人と一緒に作り上げた鎌倉幕府も、ついに滅亡の時がやってきます。そしてそれは図らずも、仲間だった同じ御家人によって倒されてしまうのでした。
1333年に後醍醐天皇によって悪党として活躍していた、楠木正成や赤松円心と共に足利尊氏が六波羅探題(鎌倉幕府の職名の一つ)を攻め。
その後関東で挙兵した新田義貞によって、鎌倉は陥落し北条氏は滅亡してしまいます。
実はこの時、後醍醐天皇の攻撃目標はあくまでも北条氏だった事もあって、鎌倉幕府の事実上のトップだった将軍は、最後に北条一族と共に亡くなったという史実は出てきません。
あくまでも鎌倉幕府と運命共同体だった、北条氏が倒幕の目的だったのでした。
鎌倉幕府の将軍との関係に鎌倉のロマンを感じよう
いかがでしたか?
今回ご紹介した以外にも、まだまだ鎌倉幕府と将軍にまつわるお話はたくさんあります。
将軍が鎌倉幕府の象徴であっても、それを守り続けた執権政治と北条氏のロマンが作り上げた武家の街鎌倉。
その夢は今もまだ色あせずに生き続けています。
次は、あなたの目で実際に鎌倉に訪れて見つけてみてくださいね!