生きる力 東京パラへのエール<中>車いすバスケでパラ5大会出場 南川佐千子(56) 前進 地元、家族の支え胸に

2000年10月、シドニーパラリンピック。予選リーグのドイツ戦でプレーする南川=シドニー

 愛知県で過ごした大学時代の4年間は、福祉を学び、自立する力を身につけるだけではなく、競技の転機にもなった。車いすバスケットボールが盛んな地域で強豪の名古屋WBCに入り、日本代表選手のプレーを見る機会に恵まれた。在学中に国際大会で日の丸をつけるまで成長できた。
 □故郷に還元
 代表活動を続けるなら、都市部の方が便利で競技レベルも高いのは分かっていた。でも、今の自分があるのは古里の人たちのおかげ。4年間で培ったものを持ち帰り、何か返さないといけない。
 「地方で前に進んでいく自分を見てもらうことで、少しでも街が変わったらいいな」
 そんな思いで佐世保市にUターン。チームも長崎サンライズに戻り、1988年、市職員に正式採用された。
 覚悟していた通りに、地方からの代表活動は「もう大変だった」。遠征費などは自己負担。年間100万円ほど使った。競技用車いすの配送料や乗り換えを考えると、関西近辺までは車で移動した。
 涙ぐましい努力が実り、88年パラリンピックソウル大会に24歳で初出場。持ち味のスピードと守備力を生かして奮闘した。「一番走る選手を止めてこい」という指示に徹して、約5分間で5ファウル退場した試合もあった。とにかく無我夢中だった。
 ソウルから帰国後、九州初の女子チーム「九州ドルフィン」を創設。月に1回程度、九州各地から熊本県などに集まって、ボールを追った。女子選手が少なく、練習環境も整っていなかった九州。心にあったのは「都市部や代表での経験を還元しないと」という使命感だった。
 □心強い味方
 パラリンピックはソウル大会後、2004年アテネ大会まで5大会連続で出場した。その間、平日は勤務後に県内各地で練習。休日は九州ドルフィンや代表の活動で遠征も入る。遠征から深夜に帰宅して、その朝に出勤する日や、代表合宿で1カ月ほど家を空ける期間もあった。
 そんなハードな生活は、同僚だった夫の貴光ら、家族の支えなくして成り立たなかった。職場の理解も心強く、1993年から佐世保市立総合病院(現・市総合医療センター)勤務になると、患者さんたちの応援がうれしかった。
 96年アトランタ大会と2000年シドニー大会の間に、長男と長女を出産。子育てが始まってからは、夫と自分の両親が協力してくれた。子どもたちがまだ手のかかる忙しい時期。一方で、その存在が大きな活力にもなっていた。
 36歳、2児の母で臨んだシドニー大会は「自分のパフォーマンスを最大限に発揮できた」。チーム全体の歯車がかみ合い、3位決定戦でオランダに快勝して銅メダルを獲得。九州ドルフィンから自身をはじめ、5人が代表入りしていたことも誇らしかった。
 現地で快挙を後押しした貴光が妻への感謝を口にする。「支えている意識はなく、自分も一緒に楽しんでやってきた。家族はかみさんから、たくさんの感動や喜びをもらった」=敬称略


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