生きる力 東京パラへのエール<下>車いすバスケでパラ5大会出場 南川佐千子(56) 希望 バリアフリーの好機

2000年シドニーパラリンピックの銅メダルを手に、当時を振り返る南川=佐世保市内

 1988年ソウル大会から2004年アテネ大会まで、5大会に出場したパラリンピック。そこで思い知らされたのは「日本と海外との差」だった。車いすバスケットボール選手の体格や技術など、コート上だけの話ではない。障害のある人たちが社会へ溶け込み、堂々と生きる姿が印象に残っている。
□社会に発信
 あのころ、日本だと障害を隠しがちだったが、海外は重度の人たちも積極的に公の場に出ていた。電動車いすの人たちが、おしゃれをして試合観戦していた。片足切断の女性がショートパンツをはき、カラフルな模様を施した義足で街を歩いていた。
 そこに違和感はなかった。周りの人々が、その光景を「当たり前」と認識していた。「閉鎖的な日本では、まだ無理だな…。誰もが自分のベストを自由に表現できる社会になったらいいのに」と思った。
 パラリンピックを通したさまざまな経験は、自らが競争に勝ってつかみ取ってきた財産。一方で、競争に負けた人もいる。「彼女たちの4年、8年間分の思いを背負って、ここにいるんだ」。そう考えると、コートでワンプレーを大切にできたし、大会後も積極的に行動できた。
 「私が世の中に発信していかないと」。講演会に呼ばれては、自らが「生きる力」を培ってきた過程や体験を伝え、社会のバリアフリー化を呼び掛けた。
□「理解して」
 10歳で脊椎を損傷した1974年ごろは「バリアフリー」の概念がなかった。車いすで佐世保の街に出ると、指をさされるような感じ。障害者対応トイレやエレベーターがない公共施設も多かった。
 それから40年以上の間に、少しずつ暮らしやすくなり「時代が変わってよかった」と感じる。今でも車いすで買い物をしていると、様子をじっと見られることはある。子どものころは嫌だったけれど、むしろ「見て、理解してね」と思えるようになった。
 まだ課題の多い日本のバリアフリーを、もっと進める好機となるのが、来年の東京パラリンピック。東京や周辺地域で、障害のある人を各国から迎えるための環境が整えられるはずだ。先進的な海外の障害者アスリートらを見ることで、人々の「目」も変わるかもしれない。
 もちろん、競技も楽しみ。特に車いすバスケットボール界は、長崎県出身や自らが創設した女子チーム「九州ドルフィン」の後輩たちがたくましく育っている。男子の鳥海連志(WOWOW)と川原凜(ローソン)は日本代表で活躍中。自国開催の大舞台で、彼らの生き生きとした姿を見られたら「本当にうれしい」。
 東京大会は多くの「きっかけ」を生むだろう。大事なのは終了後に「継続、発展」していけるかどうか。そして、さらなるバリアフリーの波が「地方に広がってほしい」。大会の成功へ、佐世保からエールを送る。「社会を変えるパラリンピックの力」に期待を込めて。=敬称略


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