高木守道監督が下した2軍コーチ“降格” 平野謙氏が語る12年中日の意外な真相

2012年からの2年間、中日でコーチを務めた平野謙氏【写真:荒川祐史】

今年1月に亡くなった高木守道さん、今月10日にナゴヤドームで追悼試合

指揮を執った「ミスタードラゴンズ」は熱く、時に意見がぶつかった。今年1月、元中日監督の高木守道さんが急性心不全のため78歳で亡くなった。新型コロナウイルス感染拡大の影響で延期されていた追悼試合が今月10日、ナゴヤドームでの中日-巨人戦で開催される。「第2次・守道政権」の2012年からの2年間コーチを務めた平野謙氏は、亡き恩人への感謝とともに、当時高木さんから告げられた“2軍コーチ降格”の真相を感慨深く振り返った。

「できないです。多分、無理です」

与えられた役目に対する素直な思いだった。高木さんが中日監督に就任した12年、1軍の外野守備走塁コーチを担った平野さんは攻撃時の三塁コーチも兼務することになった。現役時代に9度のゴールデングラブ賞を獲得した外野守備に関してはお手の物だったが、こと走塁に関しては独自の見解を持っていた。

「僕が現役の時は、走者自身が打球や野手の動きを見てベースを回るか判断しろと教わった。走塁コーチは止めるためだけにいるんだと。それに、コーチに判断を託すと速度も落ちる」

俊足で中日時代の1986年に盗塁王を獲得したこともある平野氏にとっては、身を以て体感してきたことでもあった。そんな根拠をもとに固辞しようとしたが、新監督の高木さんは受け入れてくれなかった。「やれる。やるんだ」。もちろん期待しくれた上での起用だと分かっていたが、シーズンの幕が上がると不安は的中した。

「みんながこっちを見てくるんですよ。なんで回さないんだ、なんで止めないんだって」。1点ビハインドの重要な局面で、二塁走者を本塁突入させ憤死したこともあった。“瞬間湯沸かし器”の異名をとった高木監督からは、何度も激烈な叱咤が飛んだ。

2軍コーチとの入れ替えも2週間で復帰「スタッフミーティングの内容が…」

開幕から2か月もたたない5月、平野氏は「ファームで気分転換してこい」と言われ、2軍の上田佳範外野守備走塁コーチと入れ替えに。報道陣や周囲には降格人事にも映った。だが、この“交代劇”には、別の理由もあったという。あれから8年がたち、平野氏は懐かしそうに振り返る。

「スタッフミーティングの内容が新聞に出ちゃって、その情報をしゃべったのがなぜが僕だとされていたみたいで。全く記憶になかったんですが(苦笑)。ファームに行くのは全然良かったんですが、『僕は絶対に話していません』とは言いましたね」

入れ替えから約2週間後、平野さんは再び1軍に合流。「情報の出所が分かったんだなと思いましたね」。今となっては笑い話だ。もちろん、三塁コーチとして「自分がもっとやれればよかったんだろうけど」との思いも強い。その後は一塁コーチを任され、高木監督が退任する2013年まで支えた。

わずか2年間だったが、平野氏にとっては特別な日々でもあった。愛知県出身で、ルーキー時代から10年間プレーした中日は「僕の原点」。25年ぶりにユニホームに袖を通すことができたものも、高木さんが声をかけてくれたからだった。

「監督をやめられてからも、会った時には『いつも怒ってばっかりで悪かったな』って気遣ってくれましたよ。僕は守道さんの性格もよく分かってるし『全然大丈夫ですよ!』って」

ユニホームを脱げば、情に厚い兄貴分。高木さんと過ごした日々は、平野さんの中にもずっと大切に息づいている。(小西亮 / Ryo Konishi)

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