救援一筋の燕・五十嵐を成長させた異国での経験 勘違いが生んだまさかの「先発」

2016年オフにメキシコ・ウインターリーグでプレーした五十嵐亮太【写真:福岡吉央】

不本意な成績に終わった2016年、メキシコでのウインターリーグに挑戦

極限のマウンドがよく似合う。窮地を切り抜け、何度も雄叫びを上げてきた。それが、五十嵐亮太投手を作り上げてきた。日米通算905試合登板はすべて救援。23年のキャリアは一貫してリリーフに情熱に注ぎ、今季限りで現役に別れを告げる。そんな豪腕がかつて異国で先発としての経験を積んだことは、あまり知られていない。

いまから4年前の2016年。ソフトバンクに所属していた五十嵐は、その年はケガもあり、33試合0勝1敗7ホールド、防御率3.62と前年までと比べて納得いく成績を収めることはできなかった。チームはリーグ3連覇を逃して2位。クライマックスシリーズでは日本ハムに敗れ、日本シリーズ進出を逃した。ベンチ入りすらかなわなかった五十嵐はすぐに代理人に頼み、ウインターリーグ参加の道を模索した。

当時37歳。若手選手が武者修行先としてウインターリーグを選ぶならまだしも、メジャー経験もある実績のあるベテランが志願して参加するのは異例だった。だが、五十嵐に迷いはなかった。「今年はあまり投げてないから、もっと投げたかった」との思いに突き動かされていた。

派遣先として決まったのは、メキシコの強豪トマテロス・デ・クリアカン。代理人からは「8回か9回を投げるリリーフ」と役割を聞かされていた。いざチームに合流すると、監督から伝えられたポジションはまさかの先発だった。

「最初聞いた時は『マジかよ……』と思いました」

2016年オフにメキシコ・ウインターリーグでプレーした五十嵐亮太【写真:福岡吉央】

打撃コーチの勘違いが発端で先発に「高橋さんは左で俺は右なのに…」

経緯を紐解くと、トマテロスの打撃コーチの勘違いが原因だった。五十嵐がメッツに所属していた当時、その打撃コーチも同じメッツで働いており「彼ならメッツにいた時も先発とリリーフの両方をしていたから、先発もできる」と監督に進言。だが、その“彼”は、同時期にメッツに所属していた高橋尚成だと勘違いしていた。

「高橋さんは左で俺は右なのに……」と、思わず頭を抱えた五十嵐。監督から「ほかに先発がいないから、先発をしてくれないと困るんだ…。何とかならないか?」と頼まれると腹を決め、プロ18年目で初めて先発として投げることを決断したという。

「リリーフよりも先発のほうがイニングもたくさん投げられるから、試したい球もたくさん投げられる。それならいいかと思った」

ウインターリーグ挑戦の目的は、新球スプリットを試すことだった。当時は直球、フォーク、ナックルカーブなどが武器。それに加え、フォークよりも球速が速い落ちるボールを投げられないかと模索していた中で巡ってきた先発機会を前向きに捉え「先発・五十嵐亮太」が誕生した。

メキシコでは約1か月半プレー。7試合のうち5試合に先発し、3勝2敗、防御率はチームの先発陣の中でトップの1.93をマークした。37回1/3を投げ、49奪三振で「メキシコの打者は初球から積極的に打ちに来ない」とストライク先行のピッチングでテンポ良くアウトを重ねた。

チームメートには、WBCにも出場したメキシコ代表のアルフレド・アメザガ内野手や、2019年にオリックスでプレーしたジョーイ・メネセス内野手、2017年から2年間広島に在籍したラミロ・ペーニャ内野手、メジャー通算17勝のメキシコ代表エドガー・ゴンザレス投手らがいた。「メキシコのウインターリーグは日本の1軍と2軍の間くらいのレベル」だったといい、チーム内でも外国人枠の争いがある中、そのポジションをメジャー経験のある米国人投手らに明け渡すことはなかった。

軍の検問所で叩き起こされる深夜のバス移動…環境面でもたくましく

米国でマイナーも経験していた五十嵐は、環境面でもたくましかった。チームは3連戦を終えると、夜通しかけてバスで次の都市に向かう。ウインターリーグが行われているメキシコ北西部のソノラ州、シナロア州には麻薬カルテルが複数存在。各チームの本拠地も、メキシコから米国に麻薬を密輸するルート上にあることから、バスで北上する際には必ず軍の検問所で叩き起こされ、荷物のX線検査を受けなければならなかったが、文句を言うことはなかった。

それはマウンドでも同じだった。メキシコの球場では投手が投げる直前までラテンの音楽が鳴り響き、投手がモーションに入り、足を上げない限り、音楽が切られることはない。だが五十嵐は「最初は気になったけど、すぐに慣れた」と、爆音も気にせず、マウンドに立っていた。

ナイター後の食事も、深夜営業のレストランが限られるため、タコスばかりの生活が続いた。それでも「美味しい店を探すのが楽しみ」と一貫してマイペース。メキシコライフを楽しんでいた。メキシコでは水道水を飲むとお腹を下すため、歯磨きも飲料水を使う徹底ぶりだった。

チームの連敗が続くと、監督が暗いムードを一変させようと、試合後のロッカーでウイスキーを振る舞い、選手たちが回し飲み。翌日の勝利を誓い合ったこともあった。チーム内でベテランだった五十嵐もボトルに口を付け、その場を盛り上げていた。郷に入っては郷に従え――。初めて足を踏み入れた異国でも難なく実践してみせた。

日本に帰国後も、国内でメキシコ料理のレストランを目にするたびに「メキシコ懐かしいな?」と話していた五十嵐。環境にも、予想外の先発にも動じなかったそのタフさがあったからこそ、競争の激しいプロの世界で、23年間という長い間、現役を続けることができたのだろう。(福岡吉央 / Yoshiteru Fukuoka)

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