憎しみの矛先、再びユダヤ人に

ナチスの惨劇「また起こり得る」 アウシュビッツ生存者の消せない記憶(2)

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アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所(第2収容所)の「死の門」と呼ばれた門(アウシュビッツ・ビルケナウ博物館提供・共同)

 白昼、男は玄関の木製扉を何度も銃撃した。2019年10月、ドイツ東部の都市ハレのシナゴーグ(ユダヤ教会堂)。中には礼拝中のユダヤ人ら50人。恐怖の叫びを上げ、建物の奥へ逃げ込む。押し入り、人々を殺そうとする男。幸運にも扉は破られず、惨事は免れた。男は付近でシナゴーグと無関係の市民2人を射殺し、捕まった。当時27歳の極右のドイツ人。犯行時の状況を動画で撮影し、インターネットのサイトに投稿していた。「ユダヤ人は敵だった」。男は7月の公判で、銃撃を後悔していないと言い切った。(共同通信=森岡隆)

ドイツ東部ハレのシナゴーグ前で、事件の犠牲者を悼む人々=2019年10月(ロイター=共同)

 ▽統一の陰で

 ナチスがユダヤ人約600万人を虐殺した反省から、ドイツは第2次大戦後、官民挙げて過去に向き合う努力を重ねてきた。だが、東西ドイツ統一から30年を経た今もハレを含むドイツ東部の経済発展は西部に完全に追い付かず、東西には給与などの格差が横たわる。15年にはメルケル首相の決断で、シリアなどから約90万人の難民が流入した。「自国民より難民が優先なのか」。東部では政府批判が高まり、排外主義の右派政党や極右が勢力を広げる。

 人口約8350万人のドイツでユダヤ系住民は約20万人と少数だが、憎しみの矛先は再び彼らに向かう。昨年確認された反ユダヤ主義に基づく犯罪は2032件と前年より13%増え、ゼーホーファー内相は「極右思想と反ユダヤ主義が治安の最大の脅威だ」と語った。イスラエルと敵対するドイツのアラブ系住民からの嫌がらせも相次ぐ。

 ▽死者への務め

 シナゴーグ襲撃はアウシュビッツ強制収容所を生き延びたユダヤ人男性レオン・シュワルツバウムさん(99)にとって衝撃だった。首都ベルリンに住み、10年以上、若者に収容所での体験を語ってきた。戦後、虐殺を否定する人が常にいた。それを打ち消し、自分が何を見たのか伝える。「死者に対する自分の務めだからだ」

アウシュビッツでの体験を語るレオン・シュワルツバウムさん=2月、ベルリン(共同)

 ドイツ北部ハンブルクで生まれ、アウシュビッツに近いポーランド南部の町で育った。高校の最終学年だった1939年、ドイツ軍がポーランドに侵攻して戦争が始まった。大学で学ぶことはかなわず、4年後に両親と移送列車に乗せられた。8月のある日の午前、着いた先はアウシュビッツ・ビルケナウ収容所(第2収容所)だった。

アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所(第2収容所)に到着し、選別を受ける人々。制服姿で手前に立つのはナチス親衛隊員。1944年、親衛隊撮影(エルサレムの記念館「ヤド・バシェム」提供・共同)

 列車を降りて収容所に向かうようせき立てられた。一体、何が起きるのか。女性看守が携えるシェパードがほえ掛かってくる。両親と離されて男たちの列に並ぶよう命じられた。「ここでは長生きできないぞ。到着したほぼ全員がガス室に送られた」。先に着いていた収容者に言われ、両親の死を知った。

アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所(第2収容所)で、ナチス親衛隊医師(左端)による選別を受けるユダヤ人ら。1944年、親衛隊撮影(エルサレムの記念館「ヤド・バシェム」提供・共同)

 ビルケナウは四つの大型ガス室を備え、それぞれが1日最大6千人を殺害可能だった。ナチス親衛隊(SS)隊員が建物の天井の穴から有毒ガスが発生する劇薬を投げ込み、殺害は20分程度で終了した。遺体はその後すぐに焼かれた。

アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所(第2収容所)で建設中のガス室。ナチス親衛隊撮影(エルサレムの記念館「ヤド・バシェム」提供・共同)

 ▽絶望の光景

 22歳のシュワルツバウムさんは古参収容者の伝令役になり、所内を走り回った。毎日、目の前で多くの人が死んでいった。SS隊員は収容者をゴム製の警棒で殴り、時には撃ち殺した。隊員のシェパードが収容所から逃げようとした人を追い立て、体を引き裂く。「ユダヤの豚め」。自身も何度もののしられ、殴られた。「虐待に理由はなかった。彼らは苦しむ人を見て喜んだのだ」。誰もが死を宣告されたも同然だった。だが、自分が何の罪を犯したというのか。生きていたい。絶対に生き延びたかった。

アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所(第2収容所)で、労働に適していると判断された男性ら。1944年、ナチス親衛隊撮影(エルサレムの記念館「ヤド・バシェム」提供・共同)

 ある日、絶望の光景を見た。目の前をSS隊員がバイクで走って行き、トラックが続いた。数十人の裸の人々がすし詰めの荷台で泣き叫んでいた。行き先はガス室。大勢が天を仰ぐように両腕を掲げていた。最後の助けを乞う祈りにも似ていた。自分も連れて行かれるかもしれない。不安で押しつぶされそうだった。

 45年1月、ソ連軍がアウシュビッツに迫った。いてつく寒さの中、支所を含めた約5万6千人の男女収容者がドイツのある西方に向けて「死の行進」に出るよう命じられた。毎日数十キロの徒歩移動。力尽きて座り込み、即座に射殺される人を繰り返し目にした。その後、ドイツの首都ベルリン近郊のザクセンハウゼン強制収容所の支所に送られ、4月末に2度目の死の行進に出た。ベルリンはソ連軍の猛攻を受け、ナチス総統ヒトラーが自殺した頃だった。

 ▽不安な未来

 ドイツ北部の森を歩かされ、落後した収容者に銃弾が撃ち込まれた。前線に近く、砲撃音が響いていた。5月初めのある朝、SS隊員たちが森の中で制服を脱ぎ捨て、自転車で逃げ去るのを見た。一瞬の出来事だった。

 放置された軍用車で夜を明かして外に出ると、SSではなく一般のドイツ陸軍将校2人にあいさつされた。将校に頼まれて車を渡し、収容者の仲間と近くの町に向かった。それがナチスからの解放だった。「生きてこの日を迎えられると思わなかった」。ドイツは5月8日に降伏した。

 戦後ベルリンで妻になるドイツ人女性と出会い、骨董(こっとう)品店を開いた。だが、常に気になったのは周囲のドイツ人男性の姿だ。戦争中、何をしたのか―。心の中で問いを繰り返した。

 あの日、トラックで運ばれていった裸の人々の姿が脳裏に焼き付いている。若い世代が自分の体験を聞き、将来生まれる子供に語り継いでくれればうれしい。過去に向き合うドイツの努力が失敗したとは思わない。だが、右派政党は伸長し、シナゴーグは襲われた。「悲劇はまた起こり得る」。シュワルツバウムさんは警鐘を鳴らす。(続く)


【アウシュビッツ生存者の消せない記憶】

(1)大人も子供も「みんなガス室に向かった」 戦後75年、ユダヤ人女性が見た無数の死https://this.kiji.is/691159840221578337

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