地元TV局からオファーも…元中日ドラ1・山内壮馬が歩む大学指導者の道「やりがいがある」

名城大・山内壮馬コーチ【写真提供:名城大学】

中日、楽天で9年間のプロ野球生活後に17年から母校・名城大で指導者に転身「最初はテレビ局に揺らいだんですが…」

中日、楽天での9年間のプロ野球生活を経て、17年から母校の名城大で指導者として後輩を教えている山内壮馬コーチ。現役引退時には、中日や地元名古屋のテレビ局からスタッフとしてオファーが届いたというが、その中で、指導者の道を選んだ訳とは――。後輩たちを教える、そのやり甲斐を聞いた。

杜若(とじゃく)高、名城大を経て、07年の大学・社会人ドラフト1位で中日に入団した山内コーチ。高校時代には楽天でプレーした長谷部康平とのダブルエースで甲子園を目指した。名城大では、後に中日入りした1学年上の清水昭信との2枚看板で、3年春には愛知大学野球1部で11年ぶりに優勝。全日本大学選手権でも8強の成績を収めた。中日では12年に先発ローテの一角を担い、10勝、防御率2.43の好成績を収めた。15年に戦力外通告を受け、翌16年に楽天に入団。そのオフに引退を決断した。主に先発としてプロ通算57試合に登板し、17勝15敗1ホールド、防御率3.01だった。

「中日を戦力外になった時はまだやれると思っていたけど、楽天では1試合、ワンポイントで使われただけだったし、もう需要はないのかなと思った。心が疲れていて、メンタル的に無理かなと……。戦力外になる前から、そうなるだろうと分かっていたので、いろいろ考えていました」

引退を決意した山内コーチのもとには、すぐに3つのオファーが舞い込んだ。古巣中日からは打撃投手や広報の仕事、地元名古屋のテレビ局からは球場に取材に出向く社員として、そして解説者としての話もあった。だが、母校名城大の安江均監督の「うちで後輩たちに教えてやってくれないか」という言葉が心に響いた。伸びしろがあるアマチュアを指導する魅力を感じたからだった。

「引退しても野球には携わりたい。そうなると、母校が一番いいと思った。肩を痛めていたし、打撃投手はできない。最初はテレビ局に揺らいだんですが、監督さんから話を頂いて決めました」

大学時代は「技術面も含めて、視野が狭かった。無知で、引き出しが少なく、抑え方、練習方法もパッと出てこなかった」と、当時を振り返る山内コーチ。それだけに「聞いてきた選手には要領よくできるようにしてあげたい」と、親心をのぞかせる。試合前には、選手の性格に応じて、声のかけ方も変えているという。「イケイケでいくと調子が出るタイプには、やる気を出させるために煽ります。でも、人によってはシュンとなってしまう子もいるので、性格を見ていますね」。

プロを目指せる素質のある選手には、現在地を教えてあげることも重要な役割だ。「僕の時は1学年上の清水さんが大学ジャパンに選ばれて、プロにいった。身近に感じられるところにそういう選手がいたことで、それが物差しになり、自信にもなりましたが、それまでは、自分がどれくらいで、どこまでのレベルを見据えてやればいいのかが分からなかった」。それだけに「すごくいいものを持っているのに、あまり自信を持っていない選手もいる。それはもったいない。自分の実力や可能性を気づかせてあげたいと思った」と、潜在能力を伸ばしてあげる指導を心がけている。

名城大・山内壮馬コーチ【写真提供:名城大学】

型にはめ込まない指導がモットー、プロでの経験談も「岩瀬さんや浅尾さんでも…」

担当しているのは投手。型にはめ込まない指導がモットーだ。「投球フォームは人それぞれ。必ずしも、指導者が教えるフォームがどの選手にも当てはまる訳ではない。こういのもあるよという1つの候補として提案する。それで合わなければ違うことをやってみる。教えるというよりも、一緒に探すという感じですね」。

その際に意識していることは、学生から聞いてくるまで、自分からは口出ししないことだという。「探しながらやっていれば、必ず疑問は出てくる。その積み重ねになる。でも、質問する気持ちがないと、僕から言っても頭の中には入っていかない。疑問が出て初めて教えるようにしています」。

この考えは、プロでの経験に基づいているという。「(中日でコーチだった)森(繁和)さんも近藤(真一)さんも教えてくるタイプではなく、自分から聞きにいっていた。そういうやり方のほうがいいなと思った。2軍にいた時は、自分には合わないことをコーチに言われてやらされていたこともあったけど、これじゃないだろと思っていた」。

中日に入団した当時は直球で押すタイプだった。だが、肘を痛めて制球力重視に変わった。「1、2年目はぶん回しだったけど勝てなかった。10勝した時にはすでに肘は痛かったので、スタイルを変えていた。本格派の剛腕で始まって、技巧派で終わった」。両方経験したことで、指導の幅も広がったという。

「学生なら剛腕でいてほしいが、中にはタイプ的に技巧派でいったほうがいい選手もいる。技巧派なのに直球ばかり練習するなら、他にもすることはある。両方経験できたことでそういう教え方ができるのはよかったかなと思います」

プロでの経験、感じたことも、自身の体験談を交じえ、積極的に学生に伝えている。「プロで最初にぶち当たったのが『緊張すること』でした。学生の時は緊張したことがなかったけど、プロに入ってから、やたら緊張するようになった。ほかの投手は皆、結構へっちゃらで投げていて、緊張してないと思っていた。でも、中継ぎでブルペンに入った時に、岩瀬さんや浅尾さんでもフーフーいいながら震えていた。それを見て緊張が受け入れられるようになりました」。

打たれた時のやられ方についてもアドバイスを送っているという。「調子がいい時は誰でも勝てる。でも、やられ方が悪いと次のチャンスがなくなる。どれだけやられていても、向かっていかず、完全に白旗を振ってしまうと、次のチャンスってなかなかこない。顔の表情に出てしまうと『こいつダメだ』って思われてしまう。それはプロだけでない。負け方って大事だなと思いました」。これも実体験に基づく話だ。

プロの世界では、ランニングからも学びがあったという。「ランニングはメンタル。投球に出る。タイムに波がある選手は絶対にピッチングにも波がある。ずっと同じタイムで走れる選手はマウンドでもずっと同じように投げられる。それは吉見(一起)さんで分かった。ひたむきに向きあえる人は、そういう精神状態で投げられる」。自身の話だけでなく、一緒にプレーした選手の成功例も交えて話をすることで、選手たちのやる気を引き出している。

投球フォーム指導では自身の失敗談も「自分の時は時間がかかったけど、すんなり直してくれると嬉しいですね」

フォームを崩してしまう選手には、自身の失敗談を披露している。「自分も、3年生の時にカットボールを覚えたことで、直球が横回転になり、コントロールが悪くなってしまったんです。その時は感覚で直したんですが、プロに入ってからもう一度出てしまい、簡単にストライクが取れなくなってしまった。恐怖だった。体の使い方が横振りになっているのが分かってからは直すことができたんですが、結構苦労しました」。この話をすることで、学生たちは自身のフォームを見つめ直す。「自分の時は時間がかかったけど、すんなり直してくれると嬉しいですね」。

コーチ就任2年目の秋には、自身が3年生だった06年の春以来、12年ぶりに愛知学生野球1部リーグ優勝を勝ち取った。「選手の時は自力でできるけど、指導者だとやるのは選手たち。いくら自分が強い気持ちを持っていても、自分ではプレーできない。選手に気持ちを強く持たせないといけない。指導者になってからの優勝のほうが嬉しかったですね」と、当時を懐かしむ。

実は、中日入団時、単位を残し、大学を卒業できていなかった山内コーチ。プロ入り後、大学は一旦休学していたが「せっかくお世話になったのに、このまま辞めるのも申し訳ない」と、中日入団5年目から2年間復学し、レポートなどを提出することで、10年かけて法学部を卒業している。「卒業できるチャンスがあるならしたいなと思った。でも、自分1人では無理でした。本当に色んな方に助けられました」。

プロ5、6年目というと、1軍で先発ローテの一角を担っていた時期だ。「野球もあるから授業にいけなくて、分からないことばかり。頭のいい福谷(浩司)や球団の方に教えてもらい、投げない日はナゴヤドームでも空き時間にレポートをやっていました」。だが、その努力があったからこそ、今の立場がある。「あの時卒業していなかったら、コーチの話もこなかったと思うし、(中退では)戻れなかった。卒業しておいてよかったです」と、プロで活躍する陰で、28歳まで学生をしていた当時を懐かしむ。

安江監督は「うちの大学のOBで、プロで勝ち星も挙げている。経験豊富な彼に声をかけない理由なんてなかった」と話し「安心して任せているし、後輩たちにいい指導をしてくれています」と、指導者として母校に戻ってきてくれた山内コーチに信頼を寄せている。

「大学生はプロよりも完成されていない分、急にポンと伸びることがあって、やりがいがある。今は目の前のことで精一杯で、先までは見えていませんが、しばらくはコーチを続けようと思っています」

今年のドラフトでは、17、18年と2年間指導した卒業生の栗林良吏(りょうじ)投手がトヨタ自動車からドラフト1位で広島に指名され、初めて教え子がプロ入りを果たした。山内コーチにとっては“ご褒美”とも言える嬉しい知らせ。手塩にかけて育てた後輩のプロ入りを励みに、今日も母校のグラウンドに向かう。(福岡吉央 / Yoshiteru Fukuoka)

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