自分が住んでいる土地の名前「地名」に注目したことはありますか? 地名の由来をひもとけば、その土地の意外な歴史や成り立ち、言い伝えなどを知ることができます。県名でもある「長崎」の由来や県内各地に伝わる伝説について、長崎市長崎学研究所の入江清佳(いりえさやか)学芸員(33)に聞きました。
◎教えてくれた人 長崎市長崎学研究所 入江清佳(いりえ・さやか)学芸員(33)
地名は多くの場合、その土地の人々が暮(く)らしていく中で言われるようになり、定着していったものです。「いつからこの地名になった」という正確(せいかく)な記録を探(さが)すのは難(むずか)しいのです。私(わたし)たちのような研究者は古い史料を根拠(こんきょ)に「この地名が初めて出てくるのがいつ頃(ごろ)」という言い方をします。
由来についても、いくつもの説があって、どれが本当か分からない地名もあります。しかし、その土地ならではの歴史が関わっているのでとても面白く、自分が住む場所に、ますます興味(きょうみ)と愛着が湧(わ)いてくるはずです。調べ学習にぴったりですね。
■なぜ「長崎」? 二つの説
長崎港周辺は古くから「ながさき」と呼ばれていたらしく、13世紀中期の史料には「永埼」と今とは違(ちが)う漢字で書かれていました。由来となった説は次の二つがあります。
(1)当時は海だった現在(げんざい)の長崎市立山から、以前の県庁(けんちょう)があった江戸(えど)町へ、港に向かって突(つ)き出た「長い岬(みさき)」を含(ふく)む土地だった。
(2)長崎小太郎(こたろう)という人をはじめとする「長崎」という名字を持った一族が住み、土地を支配(しはい)していた。
ちなみに、長崎港は「美しい玉(宝石(ほうせき))のように光り輝(かがや)く港」といわれ、それを表す「瓊(たま)の浦(うら)」「瓊浦(けいほ)」が長崎を指す言葉として江戸時代に使われていました。
■神功皇后にまつわる伝説も
県内には、伝説を由来とする地名もたくさんあります。それが1300年以上も前に書かれた歴史書「古事記」や「日本書紀」に登場する神功皇后(じんぐうこうごう)にまつわる伝説です。
皇后は朝鮮(ちょうせん)半島での戦いに勝って支配(しはい)したとされる人物。朝鮮遠征(えんせい)の前後に、現在の長崎県のあちらこちらに立ち寄(よ)ったといわれています。
【松浦(まつうら)市】
皇后が朝鮮半島の新羅(しらぎ)に向かう前に、現在の佐賀(さが)県唐津(からつ)市東部を流れる玉島川で魚釣(つ)りをして戦を占(うらな)ったところ、見事に「めづらしき魚」が釣れたという。それから「めづらの国」と呼ばれるようになり、次第になまって「まつら」→「松浦」になった。
【長崎市神浦(こうのうら)】
皇后が朝鮮半島からの帰りに上陸して浜辺(はまべ)の石に腰掛(こしか)けて休んだ時、「この浦は…」と言ったことにちなんでいるとされる。
【長崎市茂木(もぎ)町】
朝鮮半島からの帰りに皇后が船を寄(よ)せ、岸に上がって川沿いに来た時、裳(も)(下袴(したばかま))を着替(きが)えたという。これから「裳着(もぎ)」と呼ばれ、いつからか現在の漢字「茂木」が使われるようになった。
【長崎市飯香浦(いかのうら)町】
皇后が現在の飯香浦町にある山に登って「甑(こしき)」(ご飯を炊(た)く道具)を使って炊事(すいじ)をしたとされる。その地は「甑岩(こしきいわ)」と呼ばれ、麓(ふもと)にある浦(海岸)にはご飯の香(かお)りが漂(ただよ)ったことから飯香浦と言われるようになった。