向陽寮の足跡 戦争孤児の居場所・1 【散り散り】たどり着いた「天国」

古いアルバムの中の1枚。銭田兄弟が向陽寮に連れてこられる場面が写されていた。左の少年が常雄さん(光と緑の園 向陽寮提供)

 戦後、街中には戦争や原爆で親を失い、路頭に迷った子どもたちがあふれていた。終戦から2年後、長崎県で最初の県立孤児院(後の児童養護施設)として開設された向陽寮(現在は光と緑の園 向陽寮)。多くの戦争孤児を引き取り、社会に送り出したが、当時の記録はあまり残っていない。愛情に飢えた子どもたちに家族のぬくもりをどう伝えたのか。初代寮長の手記や元寮生らの話を基に戦後福祉の足跡をたどった。

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 大村市にある児童養護施設「光と緑の園 向陽寮」。書庫に1冊の古いアルバムが眠っていた。その中の1枚。戦後の混乱期に撮影されたモノクロ写真には、大人に付き添われ、うつむきがちに歩く2人の少年が写る。服はボロボロ。足元ははだしのまま。顔も薄汚れている。向かう先には1人の女性が迎えているようだ。
 「頼る人も、頼る場所もなく、兄と途方に暮れていたところ、駅の近くで(ボランティアの)お兄さんが声を掛けてくれました」。写真の人物、銭田常雄(81)=高知県香南市=は、当時をそう回顧した。
 6人きょうだいの4番目。父親は常雄が3歳の時にフィリピンで戦死したと聞いた。戦況が厳しくなり、母親と末の妹を除くきょうだいで長崎市岩屋郷(今の岩屋町)にあった伯母宅に疎開。近くのため池で兄たちと遊んでいた時、原爆が落ちた。6歳だった。
 長兄と次兄は泳いで竹やぶの中へ、常雄は脚の悪い三兄の常義と伯母の家に逃げ帰った。家の外でままごとをしていた妹は割れたガラスで顔が血だらけになっていた。
 翌日か翌々日。次兄、常義と3人で大橋町にあった実家に向かった。一面の焼け野原。家は消え、母親と、1歳になるかならないかの末の妹は骨も見つからなかった。
 両親を失い、きょうだいは散り散りに。常雄は大分県別府市に養子に出された。赤ん坊や牛の世話を任され、小学校にはほとんど通えず。3年ほど頑張ったが耐えられず、別府の伯母の家にでっち奉公していた常義の元へ逃走。常義もまた、竹細工を作る日々に不満を募らせていた。
 2人で長崎に戻ることを決めた。ある夜、1銭も持たず、着の身着のまま、別府駅に走った。駅で腹を空かせていると、闇市のおばさんが「ネズミのかじった」にぎり飯をくれた。夜汽車に無賃で飛び乗り、翌日、道ノ尾駅で下車。岩屋の伯母宅を訪ねたが、既に引っ越した後だった。
 雨が降っていた。服も体もびちょびちょになった。当てもなく歩いていたところ、路上生活の子どもを支援する男子学生に声を掛けられる。名前やこれまでの経緯など一通りの質問が終わり、学生はこう切り出した。
 「向陽寮に行くか」
 聞くと寝床と飯が用意されているという。どんな場所か想像もつかなかったが「はい」と即答した。学生が児童相談所につないでくれ、児相職員と寮に向かった。入り口には優しい笑顔の女性が待っていた。
 2人はそこで8年近くを過ごした。常雄は言う。「ここにたどり着いてなければきっと餓死していた。“お母さん”のおかげで寂しい思いもしなかった。向陽寮は天国だった」

◎指導徹底 人間力磨く

駅周辺で子どもが保護されている風景(光と緑の園 向陽寮提供)

 長崎県で最初の県立孤児院だった向陽寮は、終戦間もない1948年2月に開設。現在の県立長崎工業高(長崎市岩屋町)のグラウンド辺りにあった。
 落成式の様子を報じた長崎日日新聞(長崎新聞の前身)によると、建物は290坪の木造平屋。収容定数50人、3段式の洋式寝台、サンルーム、シャワーなどを備え「おそらく日本一の孤児収容施設」と伝えている。連合国軍総司令部(GHQ)が置いた長崎軍政府の中尉で、建設に尽力したマクドネル氏は「この施設は多くの不幸な子どもたちに大きな幸福をもたらすものと信ずる」と述べた。
 初代寮長は女手一つで2人の子供を育てていた当時40歳の餅田千代=1991年、82歳で死去=。戦争で夫と死別した女性たちの仕事の面倒を見る授産所で働いていた。
 餅田の手記などによると、米国の児童支援施設「少年の町」の創設者、フラナガン神父が47年に来崎。路上生活の戦争孤児の姿を目の当たりにし、言った。「早く孤児たちに家を与えなさい」。これを受け、GHQが県に建設を指示。米軍施設の廃材などが再利用された。
 寮では、未就学児から18歳までの男女が、餅田一家と生活を共にした。どのような暮らしだったのか。
 子どもたちは毎朝6時に起床。ラジオ体操で1日が始まった。炊事係は食事作りを手伝い、朝食までの間、全員で掃除。目上の子が小さい子の面倒を見た。寮内に「自治会」を設け、子ども同士でルールを作り、反省会も毎週開いた。

毎朝のラジオ体操の様子(光と緑の園 向陽寮提供)

 厳しい指導方針を打ち出した理由について、餅田は手記にこう記している。
 「(寮生たちは)親もなく、家もなく、自立していかなければならない。人に打ち勝つためには人並みの生活では駄目だ」
 元寮生の一人はこう振り返る。「毎日の生活で人間力が磨かれた。していいこと、悪いことを徹底的にたたき込まれた」。餅田は子どもたちに対し「嘘(うそ)をついてはいけない」と何度も繰り返したという。
 48年4月の児童福祉法施行に伴い、寮は孤児院から児童養護施設に呼称が変わった。20戸ほどの村落だった岩屋地区の人口増などを背景に68年、大村市に移転。現在は社会福祉法人が運営する「光と緑の園 向陽寮」になっている。(文中敬称略)

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