向陽寮の足跡 戦争孤児の居場所・3 【服従】流浪の末に「安心感」

向陽寮にたどり着き、苦しい生活から抜け出した(写真はイメージ)

 父の顔は知らない。母は5歳だった頃、病気で死んだ。戦中戦後、あちこちの家をたらい回しにされた。佐賀県伊万里市の炭坑住宅で生まれた本山義男(81)=仮名=。母の死後、叔父に引き取られたが長くは続かず、12歳になるまでに10カ所以上を転々とした。名字も数回変わった。
 ある時は駅前で「誰かこの子をもらって」と捨てられ、退役軍人に拾われた。ある時は手伝いをサボった罰として柿の木につるされ、通りがかったおばあちゃんに拾われた。1人で行く場所も食べ物もない。拾われたことに感謝し、その都度、「服従」するしかなかった。
 長崎県西彼長与村(今の長与町)にある本山家で暮らし始めたのは小学5年の3学期直前。家の姉妹につられて勉強し、学業は向上した。修学旅行用の毎月の積立金も出してくれたが、貸本屋で払う金がなくなり、ついに手を付けてしまう。それがばれて養父は激怒。児童相談所に引き渡された。
 その後、向陽寮に預けられ、流浪の少年はそこで初めて「安心感」を手に入れた。
 「原爆のせいで全てが崩れていった」。富永政弘(79)=西彼長与町=は4歳の時、長崎市川平町で被爆した。被爆時の記憶はほぼないが、母が家の下敷きになり、大けがを負い、しばらくして亡くなった。父は1年後に再婚。一緒に住んでいた姉やいとこは早々に奉公に出され、富永も4年生の時に小さな店に奉公に出された。
 店番のため、学校には行けず、学ぶことは諦めた。店先から眺める街にはまだ、戦争孤児がうろうろしていた。6年からは担任の尽力で通学を再開できたが、中学進学と同時に再び行けなくなった。その状況を伝え聞いた児相職員が店を訪問。富永を連れて行った。
 1カ月後、職員に「施設に行くよ」と告げられた。小、中学校で留年していたため、15歳で中学1年に。寮には既に60人ほどの子どもが入っており、中には18歳の中学3年もいた。最初は集団生活に萎縮したが、苦しい生活から「抜け出せる」。心には希望が満ちていた。
 寮に入ってくる理由はさまざまだった。だが、互いの出自について語ることはない。それが暗黙の了解だった。(文中敬称略)
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