向陽寮の足跡 戦争孤児の居場所・5 【偏見】「人の倍以上」の努力

「信用できない」。施設出身者に対する偏見は付きまとった(写真はイメージ)

 「親がいないやつらにひどい扱いをしても苦情がこない。そう考えていた雇い主は多かった」。向陽寮を出た後、数々の仕事に就いた坂本大八(83)=長崎市琴海村松町=は、諦めの感情をにじませ語り始めた。
 住み込みで働いた有田焼の窯元では48時間、窯の世話を命じられた。佐世保の炭坑では高熱でも休むことは許されず、孤児だと分かった途端、名簿に「要注意人物」のマークを記された職場もあった。「真面目に働かない」「信用できない」-。どんなに頑張っても施設出身者に対する偏見は付きまとった。
 坂本が表情を曇らせた。
 「施設出身者が世間に認められるには、人の倍以上の努力が必要だった」
 寮出身者の中には経営者や企業幹部、自衛官や画家になるなど“成功者”もいる。一方で社会の現実に打ちひしがれ、罪を犯してしまったり、自ら命を絶ったりした人もいた。
 元寮生の本山義男(81)=仮名=は、中学卒業後、就職先を探す中で「無戸籍」という壁に直面した。寮にたどり着くまで住む場所を転々とし、身元は分からず。憧れていた自衛官は採用試験を受ける資格すらなかった。「自分は一人。いつ死んでもよか」。捨て鉢になった。
 寮の職員の尽力もあり、数年後、かつてきょうだいを取り上げた助産師が見つかり、戸籍を取得。本山は過去に預けられた親戚のつてをたどり、20代半ばに焼き物の世界に入る。結婚し、子どもにも恵まれ、ひたすらに働いた。東彼波佐見町で窯を開き、今も現役で絵筆を握り続ける。
 毎年、正月には多くの孫やひ孫に囲まれ「幸せ」だと感じている。ただ、こうも打ち明けた。「心の寂しさは一生消えることはない」と。そして、もう一つ。父から愛された経験がなかったため、父としての愛情の注ぎ方が「分からなかった」。仕事に追われ、子どもたちに目が行き届かなかった面もある。「申し訳ない」。それもまた消えない思いだ。
 元寮生の中には世間の偏見を恐れ、今でも施設出身という事実を明かしたくない人が多いという。同じ釜の飯を食べた“兄弟”たちは、互いの出自は知らないし、近況を報告し合うこともない。(文中敬称略)

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