闇を開く反発のバネ 『おんな二代の記』に学ぶ 生誕130周年の山川菊栄(1) 

By 江刺昭子

英国視察のため羽田を出発する(左側上から)田辺繁子、山川菊栄、久保まち子、(右側上から)田中峰子、奥むめをの各氏=1951年11月16日

 明治30年代、満州の曠野(あらの)を駆けめぐる馬賊に憧れた少女がいる。のちに社会主義フェミニストとして活躍した山川菊栄である。1890年に生まれ、90歳の誕生日前日、1980年11月2日に亡くなった。

 彼女が生まれた日、11月3日に「山川菊栄生誕130周年記念シンポジウム 今、山川菊栄が新しい!」がオンラインで開催された。シンポジストは山川を研究してきた鈴木裕子さんら女性4人。大正時代から一貫して性差別撤廃を主張して女性運動をリードし、戦後は労働省婦人少年局の初代局長として手腕を振るった山川を熱く語った。それを聞いて感じたことも踏まえ、山川の何が「今、新しい!」のか、私なりに考えたことを述べたい。

 ■蔑視する男子に啖呵切った少佐夫人

 山川の仕事の中心は、論理の勝った評論だが、歴史回想や民俗を扱った著作も多い。その中の一作『おんな二代の記』(1956年刊)は明治初期から昭和戦前まで、母の森田千世(ちせ)と山川菊栄が歩いた女の歴史を重ねつづった自叙伝だが、記憶力抜群の母娘が繰り出す絶妙な語り口に引きこまれる。わたしにとって歴史への入門書になった。

 72年に東洋文庫として再刊、さらに2014年に岩波文庫から再刊されている。以下の引用は東洋文庫版による。

 時代は四つに区分される。最初の「ははのころ(明治前半)」は、針仕事をしながら母千世が「なかばひとり言のようにつぶやいていた」(あとがき)言葉を娘が書き起こしたもの。

 開国問題で騒がしい幕末、水戸藩の儒者の家に生まれた千世は、満15歳になった1872(明治5)年、水戸から馬と船で3日かけて上京する。その前年、後に女子英学塾(現津田塾大)を創立する津田梅子ら5人の少女が米国に留学しており、千世も新知識を求めていた。

 しかし、文明開化の風は男ばかりに吹いて、女には無縁。津田のような官費留学生の派遣は1回でおしまいになる。満足な女子中等教育施設さえなく、千世は築地の上田女学校、四谷見附に近い報国学舎、小石川の同人社女学校などの私塾を転々したあと、お茶の水の女子師範学校の1回生になる。

 上田女学校では入学第1日に、初めて地球儀を見て日本の位置や地球の自転を知り、一生忘れ得ぬ感激に打たれる。そして英語を学んだ。男女共学の報国学舎では少数派の女子生徒にいやがらせをする男子に向かって、年かさの陸軍少佐夫人が反撃する。

 「何をッ! べらぼうめ。おたんちん野郎! 女だろうがおたふくだろうがてめえらのお世話になるかってんだ。女に英語が読めてくやしいのか。男のくせにケチな野郎だ。くやしけりゃ遠慮はいらねェ。てめえらも負けずにペラペラッと読んで見ねえ。読めねェか。ざまァみやがれ、読めねえなら読めねえでいいからおとなしくひっこんでろい」

 この長いせりふを母が記憶し、娘が記録したのは、男からの蔑視や嘲弄に対する強い怒りや反発を、母と娘が共有していたからだろう。

 生徒たちは年齢も身分もさまざま。この胸のすくような啖呵(たんか)を切った少佐夫人は、切腹させられた水戸藩の執政を父に持つ女性で、元は生粋の江戸芸者だった。山川は幕末水戸藩の血みどろの政争に触れながら、周辺の人間模様を活写している。

 ■「陛下」を「カイカ」と読んだ首相

 女子師範で、生徒が教科書が難しすぎるとこぼすと、先生が男子師範でも同じものを使っていると叱る。そこで生徒たちが頑張って勉強していると、先生が教科書を易しいものにかえてしまい、逆に生徒が憤慨し抗議する。そんな教室風景も描く。

 寄宿舎生活や千世の同級生たちのその後の有為転変も織り交ぜながら、西南戦争の成り行き、大久保利通暗殺、鹿鳴館時代を経て国粋主義の時代へ。

 明治政府の指導者の中には「国粋主義者、復古主義者、天皇の神権、世界制覇を疑わぬ狂信家も多く」「洋服を着、外国語を話しても、自由平等とか女性の人権とかいう市民革命の理想を解する者は少なく」と、藩閥政治家や閥族官僚の暴虐ぶりを列挙する。

 首相を2度も務めた黒田清隆が「天皇陛下の御前で祝辞かなにかを読むとき、「天皇陛下」(原文は「陛下」に傍点)というのを「テンノウカイカ(階下)」と読んだ」という逸話など、現代の政治家を彷彿とさせる。

黒田清隆

 女子師範を卒業した千世は、両親の望みで洋行帰りの技師、森田竜之助と結婚し、山川菊栄は次女として生まれる。

 麹町の住まいから番町小学校、府立第二高等女学校(現・都立竹早高校)へと進学した。事業に忙しく不在がちの父に代わって、母が仕切る家庭は開明的だった。その中で強烈な自我を育てていく様子は、「ははのころ(明治前半)」に続く「少女のころ(明治後半)」に詳しい。

 ■学生と言えば当然男子と東大

 1900年、皇太子(のちの大正天皇)が結婚し、小学生の菊栄は沿道に並んで奉祝歌を歌いながら宮廷馬車を見送った。

 「ちょうどあの時刻に山川均というまだ十代の少年があの若い花嫁を人身御供としてあわれんだ文章を書いた友達とともに、日本ではじめての不敬罪にとわれて獄につながれようとは、誰が思ったでしょう?」と書いているが、後年、その人と自身が結ばれることになるとは、当時、知る由もなかった。

 現代の子どもたちがアニメやゲームの主人公に自分を重ねるように、馬賊に憧れたり、看護婦になって従軍したりしようと思ったのは日露戦争前夜の女学生時代。一方で創立早々の大橋図書館(現在の千代田区三番町所在)の常連になって一葉全集や古典を読みふけり、高女の教師が押し付ける賢母良妻教育に反発し、英語力を養って自立するため女子英学塾に進む。

津田塾大の外観(2019年4月撮影)

 入学試験の作文で「抱負」という題が出され、将来は女性解放のために働きたいと書いて、もう少しで落とされそうになり、入学後には紡績工場を見学して、女工の悲惨な状態にショックを受ける。

 時事問題の時間に外字新聞を読み国際問題に関心を持つ習慣が身につき、のちに欧米の女性解放文献を翻訳する実力を蓄えた。さらに東大の聴講を希望して規則書を取り寄せると「男子に限る」とは書いていない。同じ望みの同級生とともに教師を通じて頼みこんだが「東大側では『学生』といえば当然男子を意味し、女子は問題にならぬという解釈」だった。

 ■女の歩く道はどこも袋小路

山川菊栄(自宅庭で、1975年)

 山川は「あとがき」で書く。

 「母の時代よりはだいぶよくなっていたはずの私の時代でも、女の歩く道はいたるところが袋小路で、のびる力をのばされず、くらやみを手さぐりで歩くようなもどかしさ、絶望的ないらだたしさは、学生時代のたのしさ、若い時代のよろこびというものを私に感じさせませんでした」

 山川が「くらやみの中を手さぐりで」自立を目指した時代から100年以上。闇は薄れたが、今なお入試で女子の門戸を狭める大学があり、政治参加への壁は厚く、経済的自立への道も険しい。この闇にどう立ち向かうべきか。

 山川は幕末から明治大正昭和の歴史を、男の書いた正史ではなく、武士や軍人や政治家が活躍するテレビドラマでもなく、女の目でとらえた。その新鮮さ、社会批判の鋭さは他に類を見ない。

 抑えられれば反発するバネの強靱さと、そこからくみ上げた社会認識は、女性を含む社会的弱者だけでなく、男性も疎外されているのだと看破する。そうした視野の広さが、後年のねばり強い社会運動につながっていった。

 闇を切り開き、閉塞状況を打ち破るために、彼女の仕事に学びたい。 (女性史研究者・江刺昭子)=3回続き

疑うことは私たちの自由 生誕130周年の山川菊栄(2)

https://www.47news.jp/47reporters/5513416.html

メーデー初参加の女性たちに襲いかかる警官 生誕130年の山川菊栄(3)

https://www.47news.jp/47reporters/withyou/5517416.html

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