魂を形成する権利を男に委ねるな

疑うことは私たちの自由 生誕130周年の山川菊栄(2)

©株式会社全国新聞ネット

江刺昭子

女性史研究者

江刺昭子

女性史研究者

えさし・あきこ 広島市出身、早大卒。原爆作家・大田洋子の評伝「草饐(くさずえ)」で田村俊子賞。著書に「女のくせに 草分けの女性新聞記者たち」「樺美智子 聖少女伝説」など多数。

江刺昭子の記事一覧を見る
山川菊栄(若いころ)

 この夏、来年度から中学校で使われる歴史と公民の教科書が各自治体で採択され、話題になった。「新しい歴史教科書をつくる会」の流れをくむ育鵬社版を使っていた東京都、横浜市、大阪市など多くの自治体が他社版に切り替えた。その際、注目されたのは歴史認識や憲法観だが、女性の扱い方も教科書によって大きな違いがある。

 ■母性保護論争を取り上げた歴史教科書

 大正期の「母性保護論争」を初めて取り上げたのは、帝国書院の歴史教科書である。「多面的・多角的に考えてみよう」という2ページにわたるコラムで、3人の論者の主張を整理し、当時の女性の労働と家事をめぐるデータを資料として付している。

 母性保護論争とは、1918年から19年にかけて、『婦人公論』誌上で戦わされた女性史における代表的な論争である。教科書も取り上げた与謝野晶子、平塚らいてう、山川菊栄が主な論者だった。

 1878年生まれで11人の子を文筆で育てている与謝野が、女性の経済的自立を主張。全体の労働時間を短縮すれば、男も女も経済的、精神的に余裕ができて、家庭の仕事も男女で分担できると書いたのが発端だ。

与謝野晶子(1930年ごろ)

 これに平塚らいてうが反論した。『青鞜』を伊藤野枝に譲り、法律によらない結婚をして子をもうけた。その実感から、女性の経済的自立は困難であるとして、子どもを育てることは国家的社会事業だから、国家が母性を保護するのは当然だとした。

平塚らいてう(1912年ごろ)

 2人の論争が続く中に割って入ったのが山川菊栄で、2人の要求は当然としつつ、その根本的解決は資本主義そのものの変革によらなければならないと、社会主義女性解放論を唱えた。その中では、仕事や病気の母のために完備した保育所を全国くまなく設けるという今につながる具体策も提唱している。

 当時の働く女性といえば若い未婚労働者がほとんどだが、既婚の女性労働者が増え始め、事務職の職業婦人も出てきてくるなかで、保護か平等かという問題が提起されたのだ。産む性である女性が職業を持って働くときに直面するこの問題は、1980年代の男女雇用機会均等法の制定時にも問われたが、今日もなお解決されていない。

 この論争には、女性が働く環境をどう整えるか、育児や家事・介護など女性が担ってきた不払い労働(アンペイドワーク)をどうとらえるかといった多様な問題が含まれている。中学生たちが将来、働くようになり、家庭を持つようになると、男女共に必ずかかわってくる問題だから、この教科書をできるだけ多く採用してもらいたい。

 ■加害者の妻をたたく新聞を批判

 この論争で明晰な論旨を展開して、ひときわ注目を浴びたのが山川菊栄だった。

 これより前、菊栄は女子英学塾を卒業し、翻訳や個人教授で自立をはかっていた。1916年(当時は母方の青山姓)、友人に誘われて大杉栄・荒畑寒村の平民講演会に参加し、そこで山川均(ひとし)と知り合う。不敬罪で服役したあと社会主義運動に加わり、1910年に幸徳秋水らが逮捕(翌年処刑)された大逆事件の弾圧をからくも逃れた社会主義者である。

山川菊栄・均夫妻と長男

 菊栄の『おんな二代の記』によれば、「そのころの社会主義者といえばごろつき同様に思われ、親兄弟が失業し、姉妹が離婚された例さえあるほどのきらわれ者だった」というが、意に介さず、知り合った年のうちに結婚した。

 菊栄はまもなく結核を患うが、療養しながら出産。親子3人の生活が落ち着いたと思ったら、均が発行していた雑誌が問題となり、禁錮4カ月の判決を受けて入獄する。このときから敗戦まで、常に警察に監視される状況のなかで、翻訳や執筆活動を続けることになる。

 労働を軸とした女性論にペンをふるい、体調が良くなると、労働現場の実態調査にも出かけている。

 京都西陣職工の調査に出かけたときだった。宿泊している旅館の部屋にあいさつもなしに見知らぬ男がヌッと入ってきた。警察手帳を出したが菊栄は、自分は素人なので手帳が本物かどうかわからない、どろぼうならともかく警官が無断で客室へ入るとは思えない。ニセモノらしいから取り締まってくれと最寄りの警察署へ電話をかけた―。

 『おんな二代の記』の「大正にはいってから」にあるエピソードで、皮肉とユーモアが利いている。

 時事問題への切り口も鮮やかで、太平洋戦争が始まる頃まで、雑誌や新聞に時評を連載しており、こんな文もある。1919年、農商務省の役人である山田憲が外米輸入商の鈴木弁蔵を殴り殺すという事件があった(鈴弁事件)。新聞は、犯人の母が妓楼(ぎろう、遊女を置く店の意)の娘だったとか、妻が世帯持ちが悪い(「家計のやりくりが下手」の意―引用者注)などと書き立てた。

 菊栄は「女房が世帯もちがへただと亭主が人殺しをするにきまっているなら、かくいう私の亭主などは、今日までに鈴弁の五人や七人なぐり殺したくらいではおっつくさたではない」と批判した(宮武外骨主宰の『赤』19年8月号)。メディアが加害者の家族をさらしものにし、社会的になぶり殺しする例は今も後を絶たない。

 ■女性自身も意識変革を

 こうして19年には『婦人の勝利』、『現代生活と婦人』、『女の立場から』と3冊の評論集を出版している。売買春、家庭婦人の不払い労働、母性保護…いずれの問題も、社会の仕組みのなかで女性が抑圧されていることから起こっている。それを資本主義という社会構造と関連づけて考える視点が鮮やかだ。

 そして、男性が作り運用する法や制度を疑うことなく受け入れてきた女性自身にも意識変革を求める。

 18年に文部省が開いた女子教育会議は男性のみで構成され、女性が一人も入っていなかった。これを逆転させて、男子の教育を女性の意見だけで決めたらどうなるか。タイトルもそのものずばりの評論「男が決める女の問題」(『女の立場から』所収)で、菊栄は鋭く問いかける。

 「私たちはいつ私たち自身の魂を形成する権利を彼らの手に委ねたか。そして私たちはいかなる理由によって、私たち自身の意思を無視して審議し決定せられた彼らのいわゆる教育方針なるものに従って、生ける傀儡(かいらい)となって果つべき義務を認めねばならぬか」

 そして現状を懐疑し、批判精神を持とうと訴える。

 「かく疑うことは私たちの自由でなければならない。私たちの若き姉妹よ、まずかく疑うことを習え。かく疑うことを知ったとき、そしてこの疑いをあくまで熱心に、あくまで執拗に追求することを学んだ時、そこには私たち婦人の救いの道が開けてくることを、ただそこにのみ開けてくることを覚らるるであろう」

 今もわたしたちは、男性中心の政治が決めたことや男性中心の司法が判断したことに従わされている。そういうものだと慣れっこになっていないか。今こそ山川の言葉をかみしめて、本質を見抜く目を取り戻したい。(女性史研究者・江刺昭子)=3回続き

闇を開く反発のバネ 生誕130周年の山川菊栄(1) 

https://www.47news.jp/47reporters/withyou/5507327.html

メーデー初参加の女性たちに襲いかかる警官 生誕130年の山川菊栄(3)

https://www.47news.jp/47reporters/withyou/5517416.html