GHQ幹部の娘、福井地震の記憶

福井地震から70年ぶりに福井県福井市を訪れ、犠牲者追悼式に参列するジャン・エバンスさん(中央)=6月28日、福井市の足羽山西墓地

 廃墟と化した街、あちこちに転がる遺体。1948年の福井地震発生直後、15歳で目にした福井県福井市街地の見るに堪えない惨状が、ずっと脳裏から離れなかった。連合国軍総司令部(GHQ)の救援活動に同行した米ワシントン在住のジャン・エバンスさん(85)。70年越しの念願がかなって福井市を訪れ、6月28日の追悼式に参列して犠牲者の冥福を祈った。「きょうはとても特別な日。困難に負けずによみがえった街に祝意を表したい」と目を潤ませた。

 エバンスさんは当時、GHQ幹部の父と京都府に住んでいた。地震発生の知らせが入ると、28日深夜、救援活動に向かう父ら米国兵とともに、医薬品や食料を積んだ列車に乗り込んだ。列車は福井市街地より手前で動けなくなり、そこからは四輪駆動車で道路を進んだ。反対車線は、徒歩で街から逃げてくる人であふれていた。

 翌29日早朝、ようやく福井市に到着した。建物はほとんど崩れ落ち、至る所で火事が起こっていた。辺りにはいくつもの遺体が見えた。被災地は危険な状況だったため、妊娠7カ月の米国人女性を京都府に連れ帰るという役目を与えられ、滞在1日で福井を離れた。それでも強烈な印象が胸に刻まれるほど、「街はひどい光景だった」。

 半年後に京都府で出会い、後に夫となる米国兵のベンジャミンさん(故人)も、当時は福井に駐留し、繊維産業の復旧支援などに汗を流した。約30年前に63歳で亡くなったが、「生前は福井を、福井の人々を愛していた」。エバンスさんも、福井のその後がどうなったのかが心に引っかかっていたという。

 この日の追悼式には娘と孫4人とともに参列した。「特別な日に、福井で何があったのかを孫たちにも知ってもらいたかった」。当時の光景を思い起こすたび、涙に言葉を詰まらせ、家族が寄り添った。

 式典後、ハピリンやJR福井駅西口広場、県庁など同駅周辺の街を見て回った。あのとき焼け野原だった街は「生き返っていた。幸せがあふれていると感じた」。不死鳥のまちの市民に敬意を表し、「きょうの日を忘れないでほしい」と願った。

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