1980年12月8日、ジョン・レノンの死とそれぞれの生き方 1980年 12月8日 ジョン・レノンがニューヨークのダコタ・ハウス前で射殺された日

1980年12月8日、わずか40歳での悲劇的な最後

「ジョンだ。元気かい? いろいろうまくいってるか? 70年代は散々だったな。80年代はいい時代にしよう」

ジョン・レノンは、かつてインタビューでこんなことを言っている。でも、ジョンにとって、80年代は11ヶ月ちょっとしかなかった。1980年12月8日の夜、自宅前で射殺されたのだ。

ジェイムス・テイラーはこのときの銃声を聞いているという。ニューヨークの自宅で友人と電話で話していると、外から5発の銃声が聞こえてきた。ジェイムスは警官が誰かを撃ったのだと思い、友人にそう伝えた。すると20分後、友人からまた電話がかかってきた。「ジェイムス、さっきのは警官じゃないわ…」。

ジェイムス・テイラーに限らず、1980年12月8日は、多くの人にとって忘れられない日となった。世界でもっとも愛され影響力をもったミュージシャンが、わずか40歳で悲劇的な死を迎えたのだから、それも当然のことだった。

多くの人にとって忘れらない1日…

僕が以前勤めていた職場のオーナーはアメリカ人で、ジョンが撃たれた当日はスティーヴィー・ワンダーのライヴ会場にいたという。「今でも思い出すと鳥肌がたつ」と言って、そのときの様子を話してくれた。

ライヴの途中で訃報を知ったスティーヴィーは、「話したいことがあるから、どうか静かに聞いてほしい。とても重要なことだ」と、ある人物が亡くなったことを話しはじめた。そして、その人物がジョン・レノンだとわかったとき、会場は水を打ったように静まり返ったという。

ブルース・スプリングスティーンは、翌日に行われたライヴの冒頭で「俺が最初に覚えた曲はビートルズの “ツイスト・アンド・シャウト” だった」と語り、「昨夜の事件の被害者がジョン・レノンじゃなければ、違った気持ちでいられるのにね」とその死を悼んだ。そして、「こんな夜に演奏するのはつらい。でも、俺にはこれしかできないんだ」と語るや、フルスロットルで「ボーン・トゥ・ラン」へとなだれ込んでいった。

これまでに、本当にたくさんの人があの日のことを話すのを聞いてきた。それはミュージシャンに限ったことではない。僕の上司だった人は、集金で店まわりをしていたときに訃報を知り、「集金どころじゃない!」と急いで会社に戻ったら、ビートルズの曲が流れていたという。ある先輩は初めて弟を殴ってしまったと言っていた。義姉はビートルズファンの友達のことが心配だったという。

開かれた新しい扉、そのきっかけはジョン・レノンの死

僕は車の中にいた。家族と食事をした帰りで、確か細かい雨が降っていたと思う。ラジオがジョンの死を伝えたとき、僕はジョン・レノンもビートルズの名前も知らなかった。それから家にあった『ザ・ビートルズ 1962年~1966年』のカセットを見つけて聴くようになり、その年のクリスマスプレゼントには続編である『ザ・ビートルズ 1967年~1970年』を買ってもらっている。

いつしか僕はビートルズの熱心なファンになっていた。今でも世界一好きなバンドだ。そのきっかけがジョンの死であったことに、複雑な思いを抱くときがある。でも、それはどうしようもないことだ。ジョンの音楽に出会い、強い影響を受けたことを嬉しく思っている。

あの夜、僕の人生は大きく舵を切った。だから、僕にとってこの日は記念日でもある。大好きな人がこの世を去ったことで、新しい扉が開かれた。そんな痛みと、言葉にならないほどの感謝をもって、毎年この日を過ごしている。

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※2017年12月8日、2018年12月8日に掲載された記事のタイトルと見出しを変更

カタリベ: 宮井章裕

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