どこまでもロックンロール!ジョン・レノンは “愛と平和” だけじゃない 1980年 12月8日 ジョン・レノンがニューヨークのダコタ・ハウス前で射殺された日

ビートルズが死んだ日、それは1980年12月8日

1980年12月8日(日本時間9日)ジョン・レノン死去。当時12歳だった僕は、まだジョン・レノンという人物を知らなかった。しかし、当日のニュースが慌ただしく、両親が珍しく穏やかではなく、親父が「ビートルズが死んだ」と言ったのを鮮明に記憶している。「ジョン・レノンが死んだ」というのではなく、「ビートルズが死んだ」と。親父はジャズフリークではあったが、ロックを熱心に聴いていたという記憶は僕の中ではない。ただ、エルヴィスやビートルズの初期のナンバーだけは、日曜日の昼下がりに時たま寝そべりながら聴いていた。

親父の「ビートルズが死んだ」という言葉の真意は今となっては訊くことができない。深い意味はなく、ただ口から漏れただけの言葉だったのかもしれない。しかし、後にジョン・レノンを知り、彼の作品… ザ・ビートルズの作品を聴き続けることになる僕は、その言葉の真意について、今も時たまぼんやり考えることがある。

ビートルズは、ポール・マッカートニーの卓越したポップセンスと比類なきメロディメイカーとしての才能をはじめ、4枚目のアルバム『ビートルズ・フォー・セール』(1964年)で開花したジョージ・ハリスンのギター(アメリカの音楽を独自の解釈でオリジナリティを確立させ、彼らのサウンドに不可欠な要素となった)そして、チャボさん(仲井戸麗市)の言うところの「バスドラの踏み込み方が本物だった」リンゴ・スターのドラミング… 書き出せばキリがないのだが、あのメンバーでなければ成し得ない唯一無二の存在だったことは周知の通りである。

ビートルズのロックンロール担当、ジョン・レノン

そんなビートルズの中でジョン・レノンの役割といえば、間違いなくロックンロールだったと思う。ビートルズのロックンロール担当。それは、「僕たちはキリストより有名だ」とか、「安い席の人たちは拍手を。それ以外の方は宝石をジャラジャラと鳴らしてください」などという発言からもわかるユーモアを兼ね備えたシニカルな反骨精神だった。

また「ツイスト・アンド・シャウト」(1963年)の美しいハーモニーに重なる「ワァーオ」というジョンのシャウトは、「憧れている黒人アーティスのようになりたいんだけど、どうしていいかわからねー!」という原点回帰の魂の叫びのように感じた。それは、ジョンにとってのチャック・ベリーであり、リトル・リチャードだったのかもしれない。そんな「ツイスト・アンド・シャウト」を14歳で初めて聴いた時、今まで聴いたことない、宇宙からの交信にコネクトしたような錯覚に陥ったことを覚えている。そう、これがジョン・レノンだったのだ。

ビートルズをひとつの個体として考えた時、“心” の大きな部分を占めているのがジョン・レノンではないかと個人的には思ったりもする。“心” がジョンで “心臓” がポールだ。そしてジョージやリンゴがいなければビートルズは動き出せない。当然のことだ。だから、親父が口にした「ビートルズが死んだ」という言葉は、もう本当にビートルズの生の演奏を聴くことはなくなってしまった… という意味合いだったのかもしれない。あの “4人のビートルズ” がいなくなってしまったと…。

しかし、ビートルズは生きていたし、ジョンも生きていた。というか、僕は14歳を過ぎてビートルズのレコードを手にとり、未だ聴いたことのない最新型として彼らの音楽に接するようになった。そしてジョン・レノンという人物の音楽を、言動を、生き方を追い求めることになる。極東の島国のひとりの少年の心にジョン・レノンの魂は蘇生したのだ。

深化していくジョン・レノン、その根底には?

そして「ツイスト・アンド・シャウト」でぶっ飛んだ八方破れのシャウトを聴かせてくれたジョンが音楽的に深化していくことを知る。アルバム『ラバー・ソウル』(1965年)以降、時代性を察知した革新的なスタジオワークを施した傑作がリリースされていく中、「トゥモロー・ネヴァー・ノウズ」(1966年)や「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイヤモンド」(1967年)、「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」(1967年)などといった混沌とした時代の中に、いわば哲学的な疑問を投げかける傑作を続々と発表。同時に様々な音楽を吸収し、神格化されるほどの存在感を打ち出していった。

このようなジョンの探究心は、ソロ活動以降、亡くなる寸前まで衰えることなく、1979年には「80年代はレゲエの時代になる」なんていう言葉も残している。

だがしかし、そんなジョンの変革を知りながらも、ジョンのイメージがロックンロールであることに変わりはなかった。1970年に発表された『ジョンの魂(John Lennon/Plastic Ono Band)』では、テクノロジーが急速に発達し、ロックそのものがデコレーションされた装飾美に走る時代になろうとしていながらも、不必要と思われる部分を削りに削って、自らを裸にし、まさに、むき出しの魂の叫びを聴かせ、後の『イマジン』(1971年)に繋がる礎を作り上げた。僕はそんな『ジョンの魂』も、世界に哲学的な疑問符を投げかけていたビートルズの後期も、ひとえにジョンの反骨精神=ロックンロールが根底にあったから成し得たものだと思っている。

振り出しはロックンロール、どこまでもロックンロール

魂は絶えず変化するが、その根底にあるものは変わらない。これが僕の考えるジョン・レノンという男だ。そして、その究極が1975年にリリースされた『ロックン・ロール』だろう。

この時期のジョンは、ヨーコとの関係が悪化し別居状態。数々の裁判沙汰に巻き込まれ身も心も消沈していたはずだ。そんな時期に自分が自分であるために一度立ち止まり、原点回帰したアルバムだ。大好きなジーン・ヴィンセント、リトル・リチャード、チャック・ベリーを歌うことこそが自分の原点であったのだ。

そして、アルバムジャケットにはハンブルク時代の革ジャンにリーゼントのジョンにポール、ジョージ、スチュアート・サトクリフが走りすぎる姿が。つまり、“どんなに辛くて大変なことがあっても、ロックンロールという振り出しに戻れるなら大丈夫。そういう生き方もあるんだぜ” と僕は教わったような気がした。そしてジョンは蘇り、最後に「スターティング・オーヴァー」という曲を残し旅立っていった。

“愛と平和の人” というのはジョン・レノンの一部であって、彼はあくまでも、どこまでもロックンロールの人だと僕は思っている。14歳の時、僕の心に火を灯した「ツイスト・アンド・シャウト」はジョン・レノン没後40年目の12月8日にも心の中に鳴り響いているだろう。

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カタリベ: 本田隆

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