<未来に伝える沖縄戦>那覇襲う10.10空襲目撃 野原喜代子さん

 南風原町喜屋武出身で、現在も南風原町で暮らす野原喜代子さん(93)=旧姓・仲里=は17歳のころに沖縄戦を体験しました。戦前に父親を亡くし親戚の家で暮らしていた野原さんは、戦闘の激しかった沖縄本島南部を親戚と一緒に避難しました。野原さんの親戚で、南風原町の平和ガイドの大城逸子さんを間に交え、那覇商業高の平良太耀さん(16)と南風原中2年の渡慶次樹さん(14)が野原さんの体験を聞きました。

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 《野原さんが初めて戦争を目の当たりにしたのは、1944年10月10日の10.10空襲でした。野原さんは近所の高台から爆弾を落とされる那覇の様子を目撃しています。野原さんは「戦争が来ると思っていた」と言います。野原さんの少女時代は、日常に戦争の足音が聞こえてくる時代でした》

 戦争前に父を亡くした私は、尋常小学校を卒業した後、親戚のおばさんの家で暮らしていました。畑仕事や機織りを手伝っていました。

 10.10空襲のことは忘れられません。家の中にいても大きな音が聞こえました。今の南風原町立翔南小学校がある辺りが家の近所で、機織りの仕事をする馬上小(うまいぐゎー)と呼ばれる山があったのですが、私はそこから空襲を見ました。

 那覇に爆弾が落ちているのが見えました。那覇は焼け野原になり、「見事」だと思いました。あのときのことは忘れられません。

 小学校卒業後にミシンの技術を教えてもらう学校にも行きましたが、そこでは戦争に向けた作業がたくさんありました。「ヤア、ヤア」と(掛け声を出して)竹やりの訓練もやりました。こんなことしかやりませんでしたから、戦争に負けたのでしょうね。米軍は「バンミカサー」(ものすごい攻撃をしてくる軍隊)でしたからね。

 学校では壕掘り作業もありました。けれども嫌だとは思わず、言いつけられるままでした。周りで嫌がる人もいませんでした。戦に反対と思われますから。命令ですから。

 《米軍の上陸後、野原さんは集落の外れにあった壕で親戚たちと避難生活を始めます。野原さんたちがいた壕は南風原の陸軍病院のある黄金森の近くにありました。そこでの避難生活の間に野原さんは、犠牲になった人々の姿を目の当たりにします》

 (戦闘の開始後いたのは)今のファミリーマート(南風原翔南店)がある辺りでした。親戚9人ほどが一緒に避難していました。親戚の男の人たちはみんな戦争に駆り出されていたので、水をくんだり、ご飯を作ったりするのは若い私の仕事でした。

 水をくみに行くと、大里の辺りから弾が飛んできたことがありました。足元に向かって弾が飛んできました。(大里の方から)ピカピカと光が見えたので、(戦争が)ここまで来ているのだと思いました。

 私たちがいた壕から少し行ったところに、人の遺体を埋める穴がありました。毎日夕方になると、犠牲者の遺体を埋めに人が来ていました。手伝いたかったのですが、私も水くみの仕事があったので、できませんでした。この遺体を埋める穴も攻撃を受けていました。(戦争について)何も分からないから、私たちは集落の反対側の陸軍病院壕の近くに壕を掘っていました。

※続きは12月9日付紙面をご覧ください。

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