素晴らしい駅名ですね【木造駅舎巡礼06】美祢線05

※2020年8月撮影

トップ画像は、JR西日本美祢線於福駅。ハッキリと雨粒が落ちてきました。傘をさしたいけど、片手では写真が上手く撮れないので濡れながら我慢してます。右に看板が見えます。

「広島鉄道管理局発行「駅長さんの書いた駅名ものがたり」から一部引用」です。

※2020年8月撮影

写しますが明らかな誤字と筆者でも分かるものは注記します。

於福駅の開設は大正9年10月30日。

駅名の由来 於福の地名については諸説あります。

1 「防長風土注進案」によると山城山にこかねのつるありしを掘り出せし時「山子供・おふふく・おふふく」と呼しより於福と唱え来たりしと申傳伝へ」とある。

2 「於福風土記」によると大化の改新後、律令令がしかれ、山陽山陰連絡路の宿駅・駅家(ウマヤ)意福の里と言われ、早くから連絡路として利用も多く、延喜の代、長門の国駅家に阿津、鹿野、意福の名が見られると記している。

3 「於福村勢要覧」には、今から五百年前、この地の城主平佐雅楽守は戦国の無情(※無常だと思いますけど)を感じて他国に出家し修業中(※出家したら修行)、その夫人於福御前は夫の帰国を断念して城中にあった軍資金を費やして田畑を開き道路を開通しこの地を開拓した。「この開拓の大功労者の徳を後生(※後世でしょ?)に伝える為に於福村と改称した」とある。

駅出入口。厚保駅と同じく「於福 地域交流ステーション」があります。使用中となっていました。

※2020年8月撮影

建物財産標がありました。大正9年10月20日。上の看板では10月30日開設となっています。考えてみれば、駅の開業前に駅舎が完成している必要はありますよね。

※2020年8月撮影

駅舎にぶら下げられていた提灯は「おふく商工会」。駅前はこんな感じです。右の道の正面が駅に通じる県道341号線。駅周辺の数少ない店舗はほとんどが閉店している様で、写真左にある様な「売土地」の看板をたくさん見かけました。美祢市の人口は1955年(昭和30年)の61,870人をピークに2015年(平成27年)には、26,159人(国勢調査)と半分以下(42%)に減っているのです。言うならば、横浜市よりも広い市内に横浜市の10分の1以下(7%)の人しか住んでいないのです。商売は厳しいですね。

※2020年8月撮影

駅舎の待合室、壁面に美祢線の厚狭駅を除く全駅の駅名と写真が貼られていました。美祢駅の横に「旧吉則」と書かれています。1963年(昭和38年)に美祢駅に改称されるまで50年近く吉則駅だったのです。

※2020年8月撮影

於福駅の駅名が剥がれていますが、この4駅は木造駅舎なので今回訪問します。

※2020年8月撮影

この2駅には行きません。しかし、美祢線12駅の内、実に7駅に木造駅舎が残っています。

※2020年8月撮影

窓口は塞がれて壁になっています。隣は「於福 地域交流ステーション」。とにかく隙間恐怖症?というくらい写真などがたくさん貼られています。

※2020年8月撮影

ホーム側、改札口にはきっぷ回収箱。雨脚が写る程、雨が強く降ってきました。

※2020年8月撮影

いささか写真の枚数が多すぎるし文章も長すぎる、と言うご意見もある様なので、今回はここまでにします。続きは次回。

(写真・文章/住田至朗)

© 株式会社エキスプレス