山下久美子- Key Person 第10回 -

山下久美子

“楽しくなくちゃ嫌だ”っていうのが 歌うことにつながっている

J-ROCK&POPの礎を築き、今なおシーンを牽引し続けているアーティストにスポットを当てる企画『Key Person』、第10回目は1980年にデビューし、40周年を迎えた山下久美子。ヒット曲「赤道小町ドキッ」を持ち、“総立ちの久美子”の異名をとる彼女が“Key Person”として挙げたのは、これまで出会ってきた全ての人につながる重要な人物だった。

自分の想いを叶えないと 気が済まないってところがあった

──久美子さんは幼い頃から人前で歌うことが大好きだったそうですが、初めて人前で歌った時のことを覚えていますか?

実家の前にみかん箱を置いて、近所の子供たちを集めて歌ってたんだけど、何を歌ってたのかもあんまり覚えてないし、それって人前って言えるのかな?(笑) あとは、中学の文化祭でカーペンターズのコピーバンドを組んで歌ったことがあるから、ある意味公の場ではそれが初めてでしたね。

──幼少期や学生時代はどんな音楽を聴いていましたか?

ザ・ピーナッツが大好きで。“なぜ私は渡辺プロダクションに拾われて連れてこられちゃったんだろう?”って思ったこともあったんだけど、幼少期から渡辺プロダクションのアーティストの音楽をよく聴いてたから、今ではすごく縁を感じてます。初めて買ったレコードはちょっと渋くて、『ウエスト・サイド・ストーリー』のサントラ盤だったのね。親戚のお姉さんから影響を受けて買った記憶があるんだけど、英語がうまく歌えなくて。いいメロディーは歌いたくなっちゃうんで、それを実現させてくれたのがカーペンターズだったの。メロディーが素敵で歌いやすくて。カーペンターズもレコードを買いましたね。

──その頃の憧れの存在はいましたか?

私、あんまり憧れないんですよ(笑)。“この人に憧れて…”っていうのはないんだけど、ザ・モンキーズにめっちゃハマってましたね。キャッチーなメロディーが大好きで、「Daydream Believer」も歌ってたし、デイビー・ジョーンズにちょっと恋をしてたかも。絶対にいつか会いたいって思ってたら、その数十年後くらいに会ったんですよ! プリンスホテルのロビーで(笑)。見かけただけなんだけど、“叶うじゃん!”って(笑)。

──それはすごい偶然ですね! 幼かった頃を振り返ってみて、ご自身はどんな子供だったと思いますか?

すごい我が儘で自分勝手だったな。今でもあんまり変わってないんですけど、授業中でもずっと窓の外の海を見ていて、“いつかこの海の向こうに行きたいな”って思ったり、ちょっと妄想癖があるというか(笑)。背伸びもしてて、ずっと夢見心地でしたね。自分の想いを叶えないと気が済まないってところもあったと思うし。

──“こんな大人になりたい”っていうイメージはあったんですか?

大人になりたくないって考えてました(笑)。大人を目指してなかったというか、“もっとちゃんとした大人になろう”って思うようになったのはずいぶんあとからでしたね。

──10代の頃にソウルバンドに加入し、親元を離れてバンド活動を始めた頃には何か将来像があったんですか?

「好きなことをして暮らしていけたらいいなって漠然と思ってましたね。私にとっての好きなことは歌うことだったので、歌う道しかないって感じでした。人生って楽しいことばっかりではないけど、楽しいことを見つけていたいっていつも思うんですよ。“楽しくなくちゃ嫌だ”っていうのが歌うことにつながっていると思います。

──そのソウルバンドでのステージを観た渡辺プロダクションにスカウトされてデビューにつながったわけですが、これまでバンドで活動していただけに、ソロデビューは勇気のいる決断だったのではないでしょうか?

すごく悩みましたね。“本当にいいんだろうか?”って、その時に周りにいた人もいい人たちだったから寂しかったし。でも、あまり人に相談して決めるタイプでもないので自分で考えて、親にはあとから報告して(笑)。3年頑張ってダメだったら帰ろうと思った瞬間に決めましたね。とりあえず行ってどういうところか知ってみようと。

──「バスルームから愛をこめて」(1980年6月発表のシングル)がデビュー曲に決まって、この曲を初めて聴いた時はどのような印象でしたか?

曲自体というよりは、初めて自分のオリジナル曲をいただいて超嬉しかったです。そのあと、レコーディングに入って、歌入れをしてもなかなかOKがもらえなくて大変だったけど。何よりも“やったー!”って感じで、デビューというものがよく分からなかったけど、“今までとは違う日常が始まるんだ”と思ってましたね。

──21歳で《男なんてシャボン玉》って歌うのはどんな心境だったのか気になったんですけど、歌詞の意味というよりかは、いただいた歌をすごく純粋に歌っていらっしゃったんですね。

そうですね、一生懸命に真っ直ぐ歌ってました。私も歌詞の意味は分かってなかったし、分かったと思ってもシャボン玉って人によっていろんなイメージがあるでしょ? 単純にきれいなものであったり、ファンタジーな感じもあるから、そういう気持ちで聴いてくれた人もいるんじゃないかな?

──この曲の印象が変わったタイミングってありますか?

一時期は意味を考えすぎちゃって“今はちょっと歌えないな”って思ったこともありました。でも、そうじゃないんだよね。自分の過ごしてきた時間によって印象が変わったり、その時の自分の状況であふれ出てくるものもあるけど、自分の想いだけで歌うのは違うんじゃないかって思ってます。

ヒット曲は一夜にして 人の人生を変えると痛感した

──デビュー前からライヴハウスで活動し、デビューツアーでもライヴハウスを回るところから始まった久美子さんにとって、“ライヴハウス”とはどんな場所ですか?

自分自身を開放できる場所。客席とステージがひとつになれる場所だと思っていて、水を得た魚みたいになれるんですよ。だから、私にとって居心地の良い場所であり、思い切り呼吸ができる、生きる上で大事な場所ですね。当時、スケジュール帳がライヴでどんどん埋まっていくのもすごく嬉しかったから、ほんとかけ替えのないものなんです。

──1981年1月に行なった日本青年館での初めてのホールライヴでは、エンディングで歌った「恋のミッドナイトD.J.」をアンコールでも披露したところ、観客が一斉に立ち上がったことで“総立ちの久美子”と呼ばれるようになったわけですが、今振り返ってみてその日はどんなライヴでしたか?

初めてのホールだから、会場に向かっている時に日本青年館が見えてきただけで吐きそうになったくらいに緊張してたけど、客席が本当に愛にあふれていて。本編だけで終わるって事前に決まってたんですけど、アンコールの声が止まなくて、曲が始まって緞帳が上がっていく時に客席のみんなが立ち上がっていくのはかなりインパクトがありましたね。“あっちゃー、もう二度と戻れない”って思いました(笑)。

──人気が出ていくことに戸惑いがあったんですか?

ありましたね。私の手の平では間に合わないくらいの大きなものを抱えちゃったような感じで。当時はよく“マッチ棒に火がついた感じ”って言ってたんですけど、そのくらいの勢いを感じました。決定的な瞬間だったと思う。

──作詞は松本 隆さんで作曲は細野晴臣さんという「赤道小町ドキッ」は、それまでロックナンバーが多かっただけに歌うのに苦労した部分もあったそうですが、改めてこの曲は久美子さんにとってどんな一曲ですか?

私にとってとにかくヒット曲なんですよ。「バスルームから愛をこめて」がデビュー曲で「赤道小町ドキッ」がヒット曲っていう代表的な曲を持っているありがたみをつくづく感じてます。あの頃は23歳で、ただ目の前のことに突き進んでいる感じだったので、あまり深くは見れていなかったかもしれないけど、すごい光景に圧倒されながらエレクトリックサウンドに歌を乗せる大変さも体感して。ヒット曲は一夜にして人の人生を変えるんだなとも痛感しました。

──先ほどご自身のことを我が儘とおっしゃっていましたが、自分の意志を強く持って歩んできた久美子さんにとって、「赤道小町ドキッ」のヒットはぶれずに進むというスタンスがより強くなったきっかけでもあったのではないですか?

そうですね。自分の中での葛藤はありました。ちょっと調子に乗った時期もありますし…やっぱり人にキャーキャー言ってもらえたらそうなっちゃうんだなって(笑)。その時も私より大人でしっかりした、しかも愛情も持って接してくれた人たちがいたから、私は自分の思うことをかたちにしてこれたんだと思ってます。24歳くらいの時にちょっとつらくなっちゃって思い悩んでた時期には、楽屋に人を入れないでロウソクを焚いたり(笑)、ひたすら難しい本を読んだりしてメンタルを立て直してて…もしあの時、ひとりだったら今でも彷徨ってたかもしれない。

──他にも松任谷正隆さんや佐野元春さん、伊藤銀次さんなど、たくさんの方から楽曲提供を受けてきた久美子さんですが、音楽家の方たちとのやりとりで印象に残っているエピソードはありますか?

もちろんひとりひとりにエピソードはあるけど、その中でもやっぱり佐野くんは面白かったですね。これはよく話してたんですけど「So Young」のレコーディングの時に“まずは僕が歌ってみるから”って言って歌ってくれたんですけど、それが全然終わらなくて“いつになったら私は歌えるのかな?”ってこともあったし(笑)。ガイドヴォーカルってあんまりないから、他の方がやったらアーティストに失礼になるかもしれないんだけど、佐野くんはピュアなアーティストって感じで、私のために楽しんで歌ってくれているのが本当に幸せな光景だったね。アーティストの方々と過ごした日常は本当に独特でした。

──長く活躍されている久美子さんだからこそ、支えになっている人物もたくさんいるとは思いますが、ご自身にとってのキーパーソンはどなたですか?

デビュー40周年を迎えることができて、今まで出会った全ての人に感謝しているんですけど、そこをさらに突き詰めていった時に渡辺プロダクションの創業者である渡辺 晋さんに辿り着いたんです。彼がいなかったら今の私はいないかもしれない。今は渡辺プロダクションのOBの方がいろんなところで活躍されてるけど、晋さんのもとに集まっていた人たちの絆はめちゃめちゃ深いの。ちょっとやそっとでは切れないんだなって見ていて微笑ましいし、みんなの想いがはっきり晋さんにつながっていて、晋さんの偉大さや、晋さんにお世話になったことを絶対に忘れちゃいけないと思ってます。今までもずっと感じていたことではあるけど、こんなふうにはっきりと言葉にできるのは今だからこそで、ここに来てようやく言えるようになったんだと思う。彼の懐の深さがあったから、今でも昔のみんなと会って話せたり、楽しい時間を過ごせているので幸せですね。

取材:千々和香苗

山下久美子

ヤマシタクミコ:1980年にシングル「バスルームから愛をこめて」、アルバム『バスルームから愛をこめて』でデビュー。82年に「赤道小町ドキッ」が大ヒットし、その後もハスキーでキュートなヴォーカルとロック色の濃いポップスで数々の楽曲をスマッシュヒットさせる。90年代には海外レコーディングやセルフプロデュースなど新たなアプローチを展開し、デビュー20周年となる00年には佐野元春や桑田佳祐らをゲストを迎え『THE_HEARTS』を、05年の25周年にはデュエットアルバム『Duets』、10年の30周年には『手をつなごう』を発表。11年6月より約1年ほど活動休止するも、翌年よりデビュー時からの友人でもあり代表曲の作曲者でもある大澤誉志幸のライヴに出演。その後、大澤誉志幸とアルバムのレコーディングとライヴ活動をともに展開。15年にソロ活動を再開させ、20年にはデビュー40周年記念作品『愛☆溢れて! ~Full Of Lovable People~』をリリース。

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