まさに時代のど真ん中!「欽どこ」から生まれた三つ子ユニット “わらべ” 1982年 12月21日 わらべのファーストシングル「めだかの兄妹」がリリースされた日

バラエティ「欽ちゃんのどこまでやるの!」から生まれた三つ子の姉妹

ここだけの話、倉沢淳美サンが好きだった。

―― いや、厳密に言えば、「わらべ」の “かなえちゃん” が好きだった。

わらべとは、テレビ朝日系の『欽ちゃんのどこまでやるの!』(以下『欽どこ』)に登場する三つ子の設定の姉妹、のぞみ(高部知子)、かなえ(倉沢淳美)、たまえ(高橋真美)のユニット名である。

『欽どこ』は、名前の通り、欽ちゃんこと萩本欽一サンの番組である。企画したのも欽ちゃん自身で、彼はペンネームの “秋房子” 名義で作家としても番組に参加し、当時 “パジャマ党” という構成作家集団(あの君塚良一サンも所属していた)を率いていた。

番組のプロデューサーは、数々の伝説のバラエティ番組を生んだ “テレ朝の天皇” こと皇達也サン。ちなみに、テレ朝の天皇と呼ばれた人物は、同局には三浦甲子二と小田久栄門と、なぜか3人もいる。

今思えば、『欽どこ』は不思議な番組だった。

三谷幸喜にも影響、「欽どこ」はシットコムだった

それは、スタジオに観客を入れて行う公開収録の番組だが、後年、三谷幸喜サンが『HR』(フジテレビ系)というシットコム(シチュエーションコメディ)を書くにあたり、「一番の目標にしてたのは『欽ちゃんのどこまでやるの!』だったんです」と語ったように、ある意味シットコムだった。

そう、シットコム―― 特定の舞台があり、登場人物が限定され、毎回、些細な出来事で話が面白おかしく進むコメディである。アメリカでは優れたテレビ番組に贈られるエミー賞で、ドラマと切り離されて独立したジャンルとして扱われる。古くは『奥さまは魔女』、近年では『フレンズ』や『ビッグバン★セオリー ギークなボクらの恋愛法則』などがある。

確かに『欽どこ』も、スタジオに部屋のセットが組まれ、毎回、萩本家の日常のストーリーが展開された。その意味ではシットコムだった。ただ、台本はあるものの、アドリブも多く、ゲストもいたりして、虚構(物語)の中にリアリティが混ざる、なんとも不思議な番組だった。

最高視聴率42%! 10年続いたバラエティ番組の金字塔

スタートしたのは1976年10月である。枠は現在、『相棒』などが放送される水曜9時。当時はテレビ朝日になる前の “NET(日本教育テレビ)” の時代で、テレビ界はTBSの全盛期だった。夜の9時台は今と違って各局とも大人向けのドラマが並び、バラエティは初の試みだった。

ところが―― フタを開けたら番組は10年も続き、最高視聴率は42.0%。これは、バラエティ番組としては『8時だョ! 全員集合』(TBS系)に次ぐ歴代2位の記録である。ちなみに、この回は “のぞみ” 役の高部知子サンがある事情で欠席し、番組に電話出演。エンディングで電話口の高部サンも含めて「めだかの兄妹」を全員で合唱した伝説の回だった。

そう、「めだかの兄妹」――。

少々前置きが長くなったが、今回は38年前の今日リリースされた “わらべ” のデビュー曲と、奇しくもその1年後の同じ日にリリースされた2曲目のシングル「もしも明日が…。」にまつわる話である。

のぞみ、かなえ、たまえを演じた、高部知子、倉沢淳美、高橋真美

話をわらべの三つ子の誕生のころに戻そう。

時に、番組開始から2年半が経過した1979年2月。萩本家に三つ子の女の子が誕生する。名前は「望み叶え給え」から、欽ちゃんが “のぞみ・かなえ・たまえ” と命名。この時はまだ3体の赤ん坊の人形だった。その2年後、成長した三つ子を3人の子役たちが演じるようになり、更に翌年―― 1982年9月、劇中の物語は一気に8年が経過する。

萩本家は東京から東北のとある田舎の村に引っ越し、中学生に成長した三つ子が登場する。後のわらべである。

演じるのは、共に1967年生まれの高部知子サン、倉沢淳美サン、高橋真美サン。リアル中学3年生だった。3人ともオーディションで選ばれ、高部サンは既に子役の女優経験があり、倉沢サンはアイドル志望で、高橋サンはぽっちゃり体形で選ばれたという。

加速度的に上昇する視聴率、「欽どこ」は時代のど真ん中!

番組は、この辺りから加速度的に視聴率が上昇する。

まず、「村の時間の時間です」が口癖の “たよりないアナウンサー” を演じる斎藤清六サンが人気を博し、一方、軽妙な掛け合いコントを演じる “クロ子とグレ子” の関根勤サンと小堺一機サンもブレイクする。更に、お母さん役の真屋順子サンは “日本一のお母さん” と呼ばれ、そして当の欽ちゃんは、同番組と並行して『欽ドン! 良い子悪い子普通の子』(フジテレビ系)と『欽ちゃんの週刊欽曜日』(TBS系)をレギュラーに抱え、3番組合わせて “視聴率100%男” と呼ばれた。また、番組で度々歌われた細川たかしサンの「北酒場」も大ヒット。この年を代表する曲になった。

まさに、『欽どこ』は時代のど真ん中にあった。そのタイミングで三つ子のユニットわらべが企画される。曲のタイトルは「めだかの兄妹」。センターにかなえこと倉沢淳美、向かって左にのぞみこと高部知子、右にたまえこと高橋真美の立ち位置。それは、番組のエンディング前、三つ子が敷く布団の配置と同じだった。

そう、かの曲は就寝前に歌う曲だったのだ。それゆえ、衣装はパジャマにちゃんちゃんこである。

最初のシングルは「めだかの兄弟」累計80万枚以上のロングヒット!

 すずめの兄妹が 電線で
 大きくなったら 何になる
 大きくなったら タカになる
 大きくなったら ペンギンに

作詞・荒木とよひさ、作曲・三木たかし、編曲・坂本龍一。レーベルは、今は亡きフォーライフレコードである。吉田拓郎らがアーティスト主導の曲作りを目指して設立したレコード会社だけに、坂本龍一の起用は、そういう趣向も影響したのかもしれない。後に坂本サンはこう語っている。「どうしてこれが自分のところに来たのかと思った」――。

「めだかの兄妹」は1982年暮れに発売されるや、翌83年にかけてロングヒットする。累計80万枚以上を売り上げ、83年の年間セールスTOP3。フォーライフは当初、同曲を「童謡」と位置づけ、物品税を申告しなかったが、大ヒットしたことで国税から「流行歌」と認定され、追徴課税される。

わらべはアイドルになった。『ザ・ベストテン』や『夜のヒットスタジオ』などの歌番組にも出演し、パジャマではないステージ衣装で「めだかの兄妹」を歌った。倉沢淳美サンに夢中だった僕は、彼女たちが歌番組に出演すると、食い入るように見た。

だが、ちょっと嫌な予感がした。

高部知子の主演ドラマ「積木くずし」も連ドラ最高視聴率を記録!

歌う3人を見ていると、高部知子サンだけ、少し振付が違うのだ。倉沢サンと高橋真美サンは手を高く上げるのに対し、高部サンはほとんど上げない。低空飛行のまま。どの歌番組でもそのクセは直らなかった。

「めだかの兄妹」が、『ザ・ベストテン』に第7位で初登場したのは1983年の2月10日である。同曲はそこから5月5日のこどもの日まで実に3ヶ月間もランクインする。一方、それと並行するかのように、TBSで1つのドラマが始まる。『積木くずし』だ。主人公・香緒里を演じたのは高部知子サンだった。

ドラマはその過激な描写と高部サンの迫真の役作りが話題を呼び、高視聴率となった。2話以降は30%台に乗せ、最終回は45.3%。これは今もって連ドラの最高視聴率記録である。高部サンは脚光を浴び、わらべのセンターの倉沢淳美サンを人気で上回った。歌番組への出演は、それと並行して行われたのである。

 子猫の兄妹が 陽だまりで
 大きくなったら 何になる
 大きくなったら トラになる
 大きくなったら ライオンに

「めだかの兄妹」は3番まであり、1番ごとにリードボーカルが変わる。1番が倉沢サンで、2番が高部サン、3番が高橋サンだった。相変わらず、高部サンは腕を上げずに歌っていた。

衝撃! 高部知子のスキャンダル勃発、俗に言う “ニャンニャン事件”

嫌な予感は当たる。

1983年6月16日、高部知子サンがベッドに横たわり、裸体に布団を掛けた状態で咥え煙草の様子を捉えた写真が写真週刊誌『FOCUS』に掲載されたのだ。15歳のアイドルの衝撃の写真は芸能界を揺るがし、彼女は全ての仕事を謹慎する。

 ニャンニャン ニャンニャン
 ニャンニャン ニャンニャン
 ニャンニャン ニャンニャン
 ニャンニャン ニャンニャン

スキャンダルは、高部サンがリードボーカルを取る2番のサビから「ニャンニャン事件」と命名された。そして『欽どこ』への出演も翌週から見合せられた。前述の最高視聴率は、まさにその回―― 1983年6月22日に電話出演して記録されたものである。

この回のラストで、欽ちゃんは温情を見せて、彼女を許してほしいと語っている。『積木くずし』の役作りはドラマの中だけと思っていたお茶の間はショックを受けるが、欽ちゃんの言葉を受け、なんとなく許すムードが作られた。だが、その願いは叶わず、高部サンは2ヶ月後に正式降板する。

1人を失ったわらべ、次のシングル「もしも明日が…。」も大ヒット!

1人を失ったわらべだったが、ユニットは続けられた。そして同年12月21日―― 奇しくも「めだかの兄妹」の発売から1年後、2枚目のシングル「もしも明日が…。」がリリースされる。作詞・作曲は前曲と同じ座組、編曲は後におニャン子クラブの「セーラー服を脱がさないで」を作曲する佐藤準サンである。

「もしも明日が…。」は年が明けて1月9日、オリコン年始の集計に1位で登場すると、5週間その座を守った。そして年間で97万枚ものセールスを記録し、1984年の最大のヒットソングとなる。前曲にも増して楽曲が素晴らしいのはもちろん、高部知子サンを欠いても、健気に歌う2人の姿が日本人の琴線に触れた点は否めない。

 もしも あしたが 晴れならば
 愛する人よ あの場所で
 もしも あしたが 雨ならば
 愛する人よ そばにいて

もちろん、2人の振付が揃っていたのも言うまでもない。

あなたのためのオススメ記事 倉沢淳美「プロフィール」日本国民の娘 “かなえ” が歌う自己紹介ソング♪
※2017年12月21日に掲載された記事をアップデート

カタリベ: 指南役

© Reminder LLC